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自分で「そうしよう」と思う [『歎異抄』ふたたび(その77)]

(7)自分で「そうしよう」と思う

 二等兵の「上官の命令に従わないなどということは考えられない」という呟きはしっかり胸にしみますが、しかし検察官の「それは結局あなたが自分でそうしようと思ってしたことです」という言い分もまた否定することができません。どれほど意に添わないことでも、不本意ながら自分でそうせざるをえないと思ってしたのであることは間違いありません。こころの中でいやだ、いやだと叫びながら、しかし自分の足で突進し、自分の手で刺突したのです。その意味でこれは自力と言わなければなりません。
 自力ということばには広狭さまざまな意味がありますが、もっとも広くとれば「自分でそうしようと思ってすること」と理解することができます。そうすることが自分にとってどれほど嫌なことであっても、「やむを得ない、そうしよう」と自分が思うなら、それは広い意味で自力です。また、どれほど多くの人の手を借りようと、「人の力を借りてそうしよう」と自分で思っているのですから、これもまた自力です。こう見てきますと、われらが意識的にすることは、みなそうしようと思ってしていますから、例外なくすべて自力であるということになります。
 これは唯識学派が説く「末那識」に関係します。われらの意識にはみな例外なく「わたし(自分)」という手垢がついているということ、これです。われらの意識がどれほど朦朧としてきても、絶対手放さないのがこの「わたし」という末那識(mana、自分という意識)です。自分はどこにいるか分からなくなり、自分が誰であるかすら分からなくなっても、自分は自分であり、他の誰かではないという意識だけはしっかりしています。したがって、何をするにせよ、これは確かに自分がしているのであり、決して他の誰かがしているのではないと思っています。
 これまで、われらが意識的に何かをするときは、そこにどれほど他からの力がはたらいていても、最終的には自分で「そうしよう」と思ってしているのであり、その意味では自力であることを見てきましたが、今度は逆に、他から何のはたらきかけもなく、自分自身で「そうしよう」と思ってしていることも、実は何か見えない力で「そうせしめられている」ということを考えてみましょう。

タグ:親鸞を読む
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