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囚われとは [『一念多念文意』を読む(その106)]

(14)囚われとは

 ここから「囚われる」ことのほんとうの意味が明らかになります。
 「わがもの」への執着から離れることができると思っている人がいるとします。しかしその人もつい貪ってしまうでしょう。そのとき彼はどうするか。それは彼にとってあってはならないことですから、見ないで済むように工夫をするに違いありません。それを意識的にしているうちはまだいいのですが、次第に隠蔽していること自体を隠蔽するようになります。無意識に隠蔽するのです。さあこうなりますと、本人としてはもう「わがもの」への執着がなくなったかのように思い込んでしまいます。
 これがしかしほんとうの意味で「囚われている」状態ではないでしょうか。
 フロイトのリビドーが想起されます。ぼくらはみんなリビドーという性的衝動に駆られているのだが、それは無意識の層に押し込められていて見えないようになっている。だから、紳士淑女のように振る舞い、世の下品な輩を軽蔑の眼で見下している人も、リビドーに目隠しをしているだけで、こころの深層にはドロドロした衝動が渦巻いているとフロイトは言うのです。
 この説が当時のオーストリアの上品な人士の憤激をかったのは言うまでもありません。しかし、どうしてそんなに怒り出すのか。それはその人たちこそリビドーに「囚われている」からでしょう。自分にはそんなものは関係ありませんという顔をし、ちょっとでもその気配が現れそうになると、そそくさとそれにナプキンをかぶせて見えないようにする。これが「囚われ」の心理です。
 また『スッタニパータ』ですが、こんな一節があります、「妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々―かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである」と。中村元氏はこの「究め明かして」について、「知りつくして、それを消滅させるという意味がある」と解説してくれます。つまり、妄執(「わがもの」への執着)を隠すのではなく、それを究め明かすことが、それを消滅させることであるということです。

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