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すなはち往生を得 [「親鸞とともに」その93]

(7)すなはち往生を得

そしてそのあとに「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」ときます。不退転といいますのは、正定聚と同じく、かならず仏となるということで、往生することと不退転はひとつであるとされています。さて注目すべきは「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得」という言い回しで、これは「かの国に生れんと願ずる」ことが因、「往生を得」ることが果であると理解できます。願生という因があれば、得生という果がある、ということですが、問題はそれが「すなはち」でつながれていることです。これは「すなはちの時」の意味に違いありませんから、願生があるとき、同時に、得生があるということになります。

親鸞がここを解説してくれている文がありますので、読んでおきましょう。「願生彼国といふは、願生はよろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。彼国はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。即得往生といふは、即はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。得はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり」(『一念多念文意』)。往生を願うとき、「ときをへず、日をもへだて」ずに、往生を得るのであることがはっきり言われています。

このように、願生という因と得生という果は同時であることが明らかになりました。われらは「願生すれば、得生する」と言われますと、当然、この二つの間には何がしかの時間の経過があるものと思ってしまいますが、それは願生と得生の関係を原因と結果、すなわち異時因果と考えているからであり、そうではなく、願生と得生は縁起の関係、すなわち同時因果であるということです。つまり、願生することが、このさき得生を生み出すのではなく、願生があるところ、すでに得生があり、得生があるところ、すでに願生があるということです。


タグ:親鸞を読む
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