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濁ったレンズ [『教行信証』「信巻」を読む(その113)]

(5)濁ったレンズ

われらの「濁りによどんだ心」に如来の「澄みきった心」が与えられたとき、何が起こるでしょう、これまでの濁りが取れて、澄みわたった心になるのでしょうか。「イエス」と言えればすっきりしていいのですが、残念ながらそうは言えません。如来から真実の信楽を賜っても、「わたしのいのち」を生きるということには何の変化もなく、そして「わたしのいのち」を生きる以上、疑心暗鬼がなくなることはないからです。如来から「澄んだ心」を賜ることで、われらの「濁った心」が「澄んだ心」になるのではありません、ただ「濁った心」を「濁った心」と気づくことができるだけです。しかし、如来の「澄んだ心」を賜ることがなければ、われらの「濁った心」を「濁った心」と気づくことはありません。「濁った心」がみずからを「濁った心」と気づくことは金輪際なく、それはわれらが如来の「澄んだ心」を賜ったからこそのことです。

さてでは「濁った心」を「濁った心」と気づくことで何が起こるのでしょう。そのことで「澄んだ心」になるのではないとしますと、何も変わらないように思われるかもしれませんが、しかしこの気づきは大いなる変化をもたらしてくれます。すなわち「濁った心」に気づきますと、われらが見ているのは「濁った心」を通して見えている世界であることを自覚できるようになります。言ってみれば、われらはみな濁ったレンズ越しに世界を見ているのですから、そのことで見える世界も濁った世界となるのであることを意識できるようになるのです。そしてこの濁った世界(自他相剋の世界)はわれらの心の濁りによるものだと自覚することにより、濁った世界から受ける苦しみは大いに和らぎます。

さて、もう一つ考えなければならないことがあります。「如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり」と言われますが、いったいどのようにして浄信(信楽)がわれらのもとにやってくることになるのかということです。その疑問を解く鍵は「利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」という文言にあります。信楽の体は至心であるとされ、そしてさらに遡って「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」とありましたから、結局のところ信楽の体は名号であるということになります。すなわち信楽は名号としてわれらのもとに届けられるということで、それが次の引用でさらに明らかになります。


タグ:親鸞を読む
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