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「こんな自分は」 [「『おふみ』を読む」その43]

(3)「こんな自分は」

機の深信とは、こんな自分はもうどうにもたすからないという深いため息です。自分で何とかしようとしても、如何ともしがたいという思い。自力無効を思い知ると言ってもいいでしょう。善導はこう言っていました、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と。どうもがいても生死の苦海から抜け出る手はないという諦めです。こんな自分はもうたすかる道理はない。

「こんな自分は」と思うことはとりたてて言うほどのことではなく、よくあるような気もします。でも、そのほとんどの場合、「でもあいつよりは」がつきます。そして「あいつよりは」がある限り、ほんとうの自力無効にはなっていません。まだどこかで自分をたのんでいます。考えてみますと、自分で自分を全否定することはできる相談ではありません。自分で「自分は存在しない」と言うようなもので、デカルトをまつまでもなく、そう言っている自分はそこに存在しています。

ほんとうに自力無効を思い知るのは、自力ではなく他力によるしかありません。

他力によって思い知るというのは、平たく言えば、あるときふと気づかされるということです。「こんな自分はどうにもならない」というため息は、それが正真正銘のものであれば、自分のなかからではなく、もっと深いところ、自分を突き抜けたどこかからやってきているはずです。だからこそ、どこかから否応なく気づかされたと感じるのです。そのような気づきがあるかどうか、これがすべての分かれ道です。この否応のない気づきがあってはじめて「すべてを弥陀の大悲にゆだねるしかない」という思いがあふれ出るのです。

「たのむ」や「たすけたまえ」が、こちらからたすけを求めるという意味ではなく、むこうからのたすけに身をゆだねるという意味になるのは、そこに「こんな自分は」という気づきがあるからです。


タグ:親鸞を読む
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