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永遠なる「ねがい」が名号の「こえ」として [「『正信偈』ふたたび」その116]

(9)永遠なる「ねがい」が名号の「こえ」として

阿弥陀仏とは「アミターバ(無量のひかり)」であり、「アミターユス(無量のいのち)」です。さてしかし「無量のひかり」や「無量のいのち」という「体」がどこかに存在しているわけではありません、本願という不思議な「用(はたらき)」を「無量のひかり」や「無量のいのち」と呼んでいるだけです。「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」が、どんな過去よりももっと過去から生きとし生けるものにかけられているということです。この「ねがい」は永遠の過去から存在しているのですが、永遠なる「ねがい」はそのまま直接に時間のなかにあらわれることはできません。それは時間のなかに生きる人間の「こえ」としてその姿をあらわします。それが名号です。

南無阿弥陀仏という名号は、そのなかに「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」が込められた不思議な「こえ」です。そしてその「こえ」が聞こえることで、われらに救いが与えられるのです。そのことが第十八願の成就文で「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と述べられています。名号の「こえ」がわれらに聞受されることが、取りも直さず本願の信心であり(「聞即信」です)、そしてそれが「すなはち往生を得」(即得往生)ることに他なりません。

さて「いのち、みな生きらるべし」という永遠なる「ねがい」を名号の「こえ」としてわれらに届ける仕事をするのが「十方世界の無量の諸仏」(第十七願)です。そして釈迦はその諸仏の一人としてわれらに本願の名号を届けてくれたのであり、それが「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」ということです。かくして弥陀の永遠なる「ねがい」が、釈迦によって時間のなかにその姿をあらわしたのです。この弥陀と釈迦について親鸞は和讃にこう詠います、「弘誓のちからをかぶらずは いづれのときにか娑婆をいでん 仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし」、「娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし」(『高僧和讃』「善導讃」)と。


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