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「信巻を読む(2)」その82 ブログトップ

恥ずべし傷むべし [「信巻を読む(2)」その82]

(12)恥づべし傷むべし

真仏弟子釈の終わりにあたり、思いがけない親鸞の悲歎述懐がきます。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚(じょうじゅ、正定聚)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷むべしと。

如何にも唐突と言わなければなりません。これまで真の仏弟子が現生において受けるさまざまな利益を語り、最後に「金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし」と述べたその直後に、「悲しきかな愚禿鸞」と述懐するのですから驚かざるを得ません。はじめて「信巻」を読んだときは、この文が前後から浮き上がっているように思えたものですが、繰り返し読むうちに、これこそ親鸞だと思えるようになりました。親鸞のなかでは正定聚不退となれた喜びと、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑」している悲しみがまったく一体となっているということです。すでに存覚は『六要鈔』(『教行信証』の最初の注釈書です)において、そのことをこう言っています、「誠知(まことに知んぬ)等とは、傷嘆のことばなり。ただし悲痛すといへども、また喜ぶところあり、まことにこれ悲喜交流(こうる)といふべし」と。

親鸞は和讃でこう詠います、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」、「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」(どちらも『正像末和讃』「愚禿悲嘆述懐」)と。ここでも「虚仮不実のわが身」である悲しみと、「功徳は十方にみち」ている喜びが表裏一体になっています。悲しみがある「にもかかわらず」喜びがあるのではありません、悲しみがある「からこそ」喜びがあるのです。それは、悪人である「にもかかわらず」摂取されるのではなく、悪人である「からこそ」摂取されるのと軌を一にしています。

「無慚無愧のこの身」であることに深い悲しみを覚えるからこそ、そんなわが身が摂取される喜びが湧きあがるのです。「機の深信」があるからこそ、「法の深信」があるのです。

(第7回 完)


タグ:親鸞を読む
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