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名号と信心 [「『正信偈』ふたたび」その19]

(10)名号と信心

次に第二句「至心信楽の願を因とす」ですが、至心信楽の願とは第十八願で、「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじ」というものです。ただ、これだけでしたら、先の第十七願とのつながりが見えませんが、十八願の成就文、「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」を読みますと、第十八願で「心を至して信楽して」と言われるのは、十七願の諸仏称名によりわれらに届けられた「その名号を聞きて信心歓喜せん」ことであるのがよく分かります。つまり、如来は本願をわれらに届けるために、第十七願で、十方世界の無量の諸仏に名号を称えさせ、そして第十八願で、その諸仏の称名の「こえ」がわれらに聞こえて、われらが心から慶ぶようにと願っているのです。

このように第十七願と第十八願は切り離しがたく一体となっていることが分かります。すなわち、どれほど諸仏に称名せしめて名号をわれらに届けようとしても、われらにその「こえ」が聞こえなければ本願名号は宙に浮いてしまいます。だからこそ十七願だけでなく、十八願で「十方の衆生」が「その名号を聞きて」、「心を至して信楽」するようになることを願わなければならないのです。そのことから第一句で名号が往生の正定業と言われ、第二句で信楽が往生の因であると言われることがよく了解できます。名号がなければ往生がかなわないのはもちろんですが、しかし同時に信心がなければまた往生は何ともなりません。両方そろってはじめて往生は成就するのです。

さて第三・四句「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」は、本願の名号がわれらに聞こえたときに何が起こるかを述べます。もちろん救いすなわち往生が起こるのですが、それについて語る願が第十一願、「必至滅度の願」です。『大経』では「国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」とありますが、異訳の『如来会』では「国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り大涅槃を証せずは」となっていて、それがここで取られています。そして双方を照らし合わせることで、等正覚とは(正)定聚と等しく、大涅槃が滅度と同じであることが分かります。


タグ:親鸞を読む
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