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ことばが「わたし」をゲットする [「信巻を読む(2)」その19]

(6)ことばが「わたし」をゲットする

われらはさまざまなものをゲットすることで生きています。衣食住は言うまでもなく、地位や名誉やさらには愛情もゲットしなければなりません。そしてそのためには、ことばをゲットする必要があります。人のことばを聞き、それを理解し、そして反応することが求められます。それらのすべては「わたしのいのち」を維持するためであり、したがってそのために有用であるかどうかということが関心事となります。「わたしのいのち」にとって有用であるものが善きもので、有害なものは悪しきもの、どちらでもなければ無用です。このようにわれらがことばをゲットするときには、それが「わたしのいのち」に有用であるかどうかという規準で判断され、そのようなバイアスがかかっています。

これが普通にことばを聞くということで、「わたし」がことばをゲットしています。

ところが、ときにことばが「わたし」をゲットすることがあります。「聞其名号」とはそのような特別な経験で、南無阿弥陀仏ということばが「わたし」を鷲づかみするのです。南無阿弥陀仏ということばが中空から舞い降りてくるわけではありません、人のことばを通して南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえてくるのです。親鸞の場合、「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という「よきひと」法然のことばを通して、「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」という弥陀招喚の「こえ」が聞こえてきたのです。そのときこの「こえ」が親鸞を鷲づかみしています。

これが、ことばが「わたし」をゲットするということで、南無阿弥陀仏のことばに「わたし」がゲットされたとき、「わたし」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」に包み込まれています。時間のなかに「永遠のいのち」があらわれ、そのなかで生かされています。だからこそ「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」という驚くべきことばが親鸞の口をついて出るのです。

最後の「一心専念」「専心専念」については、すぐ後で親鸞自身の注釈がありますので、そのときに述べましょう。


タグ:親鸞を読む
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