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本文5 [はじめての『尊号真像銘文』(その29)]

(6)本文5

 「悪趣自然閉(あくしゅじねんぺい)」といふは、願力に帰命すれば五道生死をとづるゆゑに自然閉といふ。「閉」はとづといふなり。本願の業因にひかれて自然に生るるなり。「昇道無窮極(しょうどうむぐごく)」といふは、「昇」はのぼるといふ。のぼるといふは無上涅槃にいたる、これを昇といふなり。「道」は大涅槃道なり。「無窮極」といふはきはまりなしとなり。「易往而無人(いおうにむにん)」といふは、「易往」はゆきやすしとなり。本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。「無人」といふは、ひとなしといふ。人なしといふは、真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。しかれば、源信和尚は、「報土に生るる人はおほからず、化土に生るる人はすくなからず」とのたまへり。「其国不逆違自然之所牽(ごこくふぎゃくいじねんししょけん)」といふは、「其国」はそのくにといふ。すなわち安養浄刹なり。「不逆違」はさかさまならずといふ、たがはずといふなり。「逆」はさかさまといふ、「違」はたがふといふなり。真実信をえたる人は、大願業力のゆゑに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆゑにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきはまりなしとのたまへるなり。しかれば「自然之所牽」と申すなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなり。これを「牽」といふ也。「自然」といふは、行者のはからひにあらずとなり。

 「悪趣自然閉」と言いますのは、願力のままにもたれかかりますと、迷いの世界は閉じますから、自然閉と言うのです。閉は「とじる」ということ、本願のはたらきに引かれて自然に往生できるということです。「昇道無窮極」と言いますのは、昇は「のぼる」ということ。「のぼる」というのは、無上の涅槃に至ることで、これを昇と言うのです。道とは大涅槃の道です。無窮極とは「きわまりのないこと」です。「易往而無人」とは、易往は「ゆきやすい」ということ。本願力に乗せていただきますと本願に誓われている真実の浄土に往生できるのは疑いありませんから、往きやすいのです。無人とは「ひとがいない」ということ、真実の信心の人は有り難いですから、真実の浄土に往生する人はまれだというのです。ですから、源信和尚は真実の浄土に往生できる人は多くなく、仮の浄土に往生する人は少なくないと言われたのです。「其国不逆違自然之所牽」と言いますのは、其国は「そのくに」ということ、つまり安養浄土です。不逆違はさかさまではないということ、ちがわないということです。逆はさかさまということ、違はちがうということです。真実の信心を得た人は、大いなる願の働きによるがゆえに、おのずから浄土へ往くことができるのは間違いありませんし、願の働きに引かれていきますから往き易く、無上の大涅槃に至ることきわまりがないと説かれているのです。ですから、自然の牽くところと言うのです。他力の至心信楽の業因がおのずから引いてくれるのです。これを牽と言います。自然というのは、行者のはからいではないということです。

タグ:親鸞を読む
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