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親鸞の和讃に親しむ(その15) ブログトップ

仏慧功徳をほめしめて [親鸞の和讃に親しむ(その15)]

5.仏慧(ぶつて)功徳をほめしめて

仏慧功徳をほめしめて 十方の衆生にきかしめん 信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし(第50首)

弥陀の本願ほめあげて、有縁の人にきかせては、すでに信心えた恩を、いつも忘れず報ずべし

「信心すでにえんひと」に何が起こるかについて、これまでの和讃でもさまざまに詠われてきました。第1首では「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」、第9首では「業垢をのぞき解脱をう」、第25首では「おほきに所聞を慶喜せん」、第31首では「ながく不退にかなふなり」というように。そしてこの第50首ではあらためて「信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし」とした上で、その具体的なかたちについて「仏慧功徳をほめしめて 十方の衆生にきかしめん」と詠われます。自分が仏の智慧に気づかせていただいたことを慶ぶことは、おのずからその慶びを「十方の衆生にきかしめ」ることになるということです。還相回向と言い、衆生利益と言い、衆生教化と言いますと、何かたいそうなことのように思いますが、実際はといいますと、仏の智慧に気づくことができた慶びは自分のなかにおさまることはできず、否応なくそれを「十方の衆生にきかしめ」ることになるということです。

仏の智慧に気づくということは、如来から「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」という呼び声を聞かせていただくということですから、その慶びたるや天に踊り、地に躍るものと言わなければなりません。そしてこの声は自分だけでなく、あらゆる有情に届けられているはずですから、まだそれに気づいていない人たちに「ほら、不思議な声が聞こえるでしょう」と呼びかけて回りたくなるものです。それはちょうど雨上がりの空にすばらしい虹がかかっているのに気づいた人が、だれかれ構わず「ほら、あそこに虹が!」と叫んで回りたくなるようなものです。それは「十方の衆生にきかしめ」なければならないという義務感というよりも、もう聞かしめざるをえない、そうでなければ気が収まらないということです。それが「つねに仏恩報ずべし」ということで、この「べし」も「そうしなければならない」ということではなく、「そうする以外にはありえない」ということです。


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