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縁ということ [正信偈と現代(その205)]

(4)縁ということ

 このように「わたし」が自由に(好き勝手にという意味ではなく、己自身の理性に則ってという意味で)何をなすべきかを考えることの大切さを思うのですが、と同時に親鸞のことばが胸に迫ります。「なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第13章)。「わたし」が熟慮して「こうすべきである」と思っても、そうすべき縁がなければできないし、「こうしてはならない」と思っても、縁のままにそうしてしまうかもしれない、ということです。
 縁というのは「つながり」です。自分ではどうしようもない「つながり」の中にすでに置かれているということ。
 すぐ前のところ(3)で、「わたし」は「つながり」に先んじていると述べました。結局は「わたし」が「つながり」を選んでいるのであり、その「つながり」が耐え難いのなら、それを拒否できるのが人間であると。そう見ることに人間としての尊厳があるのは疑いのないことです(その尊厳がかえりみられない社会は暗黒です)。さてしかし、何ごとも「わたし」が選んでいると言ったところで、それはそのような縁があるからにすぎません。そうすべき縁があるからそのように選んでいるのであり、そうすべき縁がなければそうしようとも思わないと。
 ぼくらはあたかも「わたし」が絶対的な始点であるかの如く生きているのですが、そしてそこに人間の尊厳と悲惨があるのですが、実のところは、「わたし」も他のあらゆるものたちとの縦横無尽の「つながり」のなかにあるということです。何ごとも「わたし」の意志でそうしていると思っていますが、実は、そうせざるをえない縁があってそうしているのです。

タグ:親鸞を読む
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