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真理はひとつ [『歎異抄』ふたたび(その31)]

(8)真理はひとつ

 真理はひとつなどと言いますと、「えー、どうして?」という反応が返ってくるに違いありません。真理を「普遍的に妥当する知識」としますと、それは無数にあると思われます。学問は日々新しい真理を見つけだそうと努力していますし、またその領域が異なれば種類の違う真理がありますから、真理は星の数ほどあると言うことができます。それはまったくその通りですが、その場合の真理といいますのは、われらがこちらからゲットする真理であり、われらが「知る」真理です。われらは生きていこうとして、さまざまなものをゲットする必要に駆られますが、そのためにはさまざまな真理をゲットしなければなりません。
 しかし真理にはそれとはまったく別のものがあり、それは思いがけずむこうからゲットされる真理、われらが「信じる」真理、いや「信じざるをえない」真理です。キルケゴールという人のことばでは、「わたしがそのために生き、そのために死ぬことができる主体的真理」です。他の人にとっては何の意味もないことであっても、この自分にとってそれがなくては生きていけない真理。「真理はひとつ」と言っているのは、この真理のことです。しかし、この真理についても、それは人それぞれであり、ひとつではないと言われるかもしれません。実際のところ、さまざまな宗教やさまざまな哲学が「ここに真理あり」と主張しています。
 釈迦の時代にもバラモン教の伝統に異を唱えるいろいろな新思潮が現れ、覇を競いあっていました。道徳否定論、唯物論、運命論などがいわゆる自由思想家たち(仏教では六師外道とよばれます)によって華やかに展開されていたのです。で、釈迦はどうしたか、彼もまた新しい思想を引っ提げてその論争の中に飛び込んでいったのかといいますと、さにあらず、彼は「争わず」の立場を取りました。彼はこう言うのです、「真理はひとつであり、それを知ったものは争わない」と。

タグ:親鸞を読む
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