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「『おふみ』を読む」その1 ブログトップ

第1通第1段 [「『おふみ』を読む」その1]

第1回 はじめに―第1帖第1通


(1)第1通第1段


(ある)(ひと)いわく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候やらん、如来・聖人の御弟子ともうすべく候やらん、その分別を存知(ぞんじ)せず候。また在々(ざいざい)所々(しょしょ)に小門徒をもちて候をも、このあいだは()(つぎ)の坊主には、あいかくしおき候ふやうに、心中(しんちゅう)をもちて候。これもしかるべくもなきよし、人のされ候だ、おなじくこれも不審(ふしん)千万(せんばん)に候。御ねんごろにうけたまわりたく候


(現代語訳) ある人からこんな質問がありました。わが浄土真宗では、門徒を自分の弟子と考えるべきでしょうか、それとも如来や親鸞聖人の弟子というべきでしょうか。そこがよく分かりません。また、ところどころの道場に小人数の門徒がいますが、いまのところ手次の寺の坊主には内緒にしておこうと思っています。ところが、これもよくないと言う人がいます。これまた疑問に思っていることですので、お伺いしたいと思います、と。


 みなさん、こんにちは。これから蓮如の『おふみ』(西本願寺では『御文章』といわれます)を読んでいきたいと思います。浄土真宗の開祖は言うまでもなく親鸞ですが、しかし親鸞という人をこれほどまでに世に知らしめたのは他ならぬ本願寺第八代・蓮如と言うべきでしょう。ぼくらは蓮如によって親鸞を知ることができたと言わなければなりません。いまでこそ親鸞は鎌倉新仏教の中心人物として教科書にも載り、その名を知らない人はいないと言えますが、それももとをたどれば、蓮如によって浄土真宗の教線がものすごい勢いで広げられたからです。そして、蓮如の手で親鸞の『正信偈』と『三帖和讃』が開版されることで、それが日々のお勤めで読まれるようになり、全国津々浦々の真宗寺院で、あるいは各門徒の仏壇で、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(『正信偈』)という声、そして「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」(『浄土和讃』)の声が聞かれるようになったのです。



タグ:親鸞を読む
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