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事前と事後 [『末燈鈔』を読む(その105)]

(10)事前と事後

 ぼくがいつも思うのは、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」の「すなはち」は、普通に「そのとき」、あるいは「ただちに」と読むよりも、一歩踏み込んで「もうすでに」と読んだ方が親鸞の真意に近いのではないかということです。
 信心がさだまったとき、つまり本願に遇えたそのとき、「もうすでに」摂取されていることに気づくということ。
 気づくのは本願に遇えたそのときですが、でも、それよりずっと前からもう摂取不捨されていた。ずっと前から摂取不捨されていたのに、これまでそれに気づかずにいたということです。ですから、気づいた後から言えば、摂取不捨が先で、信心がさだまるのはその後ということになります。それが「往生の心うたがひなくなり候は、摂取せられまいらせたるゆへ」ということです。
 信心がさだまったそのときに摂取不捨の利益にあずかっていることに気づくのはその通りですが、でも摂取不捨にあずかっているのは、それよりはるか前からだということです。それを事後的に言いますと、摂取不捨にあずかっているからこそ、信心がさだまることができた、つまり本願に遇えたとなります。
 これは信心と摂取の関係を普通に原因・結果とは考えることができないということを意味します。「信心がさだまることにより摂取不捨の利益にあずかる」ということから、そうか、信心が原因で摂取が結果なのだ、と思ってしまうと、とんでもない落とし穴にはまるということです。
 ちょっと横道にそれることになりますが、ここで原因・結果の概念について考えておきたいと思います。


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