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滅度に至る [「信巻を読む(2)」その72]

(2)滅度に至る

あけましておめでとうございます。

昨年は「宗教の枷」についていろいろ考えさせられました。人々の孤独と不安につけこんで心に枷にはめてしまう宗教。思えば高校生のときに、あの宗教と出会っていました。校門のところで「原理研究会」の幟をたて、下校する生徒を待ち構えて誘ってくる青年。如何にも怪しげでしたが、ぼくはついその誘いに乗り、彼らが集団生活している一室までついて行ったことがあります。そんな気になったのは、ぼくの心の底にぽっかりと空洞があいていたからに違いありません。ほんとうの宗教はぼくらを心の枷から解放して自由にしてくれるはずですが、逆に心に枷にはめる宗教が多くあることに気づかされます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

さて次に信心の人と弥勒は不退転の位にあるという点で「同じ」であるという驚くべき論点です。弥勒は自力修行により不退転の位につき、いま兜率天にいて五十六億七千万年後(!)に娑婆世界に下生し仏となるとされるのですが、その弥勒と、他力信心により不退転の位についたものは「同じ」であると言うのです。これを考えるとき、留意しなければならないことがあります。弥勒の場合、今生のいのちを終えたあと、いま兜率天にいて、そしてまた将来この娑婆に戻って仏となるというのですが、信心の人もそれと同様に、いま正定聚不退となっていて、いのち終えたのちに仏となるのでしょうか。そもそも仏となるとはどういうことでしょう。

手がかりとして第十一願を見てみましょう。「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」とあり、必至滅度の願とよばれます。これは次の「証巻」で取り上げられますが、先回りして、この文で言われる「(正)定聚に住す」ことと「滅度に至る」ことについて考えておきたいと思います。すでに第十八願成就文で見ましたように、正定聚不退となるとはかならず仏となることであり、それは信心をえたそのときです。そして滅度に至るというのが仏となるということで、仏となるとは「わたし」の火が消えて、涅槃寂静になることです(「わたし」が涅槃寂静の境地に入るのではありません、念のため)。そして滅度に至ることは「かならず」と言われますから、将来のこと、いのち終わったのちのことと考えられます。

正定聚とは「かならず仏となるべき身」ですから、正定聚になることと、かならず滅度に至ることはまったく同じ意味ですが、しかし「いますでに」正定聚であると言うのと、「かならず」滅度に至ると言うのとでは、意味していることは同じでも受ける印象が大きく異なります。そして親鸞にとって「いますでに」正定聚であることに重きがあるのは言うまでもありません、救いは「いま」にしかないからです。「いますでに」正定聚であるとは、「その心すでにつねに浄土に居す」ことであり、もうすでに救われているということですから、それ以上何を望むことがあるでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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