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9月18日(日) [矛盾について(その411)]

 ぼくはこの場面を見ながら原発事故のことを思っていました。事故が起こってから、「そうなるだろうということは前から分かっていた」と語る人たちのことです。そして鬼の首でも取ったように脱原発を声高に説く人たち。その人たちは原発に不安を抱いていたに違いありません。でも、あれほどヒドイ事態になることを想定していたでしょうか。そして原発から風力や太陽光へとシフトしなければならないという明確な意思を持っていたでしょうか。そうなればいいが、そう簡単にはいかないと思っていたのではないでしょうか。
 ぼく自身がそうでした。ぼくは決して原発推進派ではありませんでしたが、いますぐ原発を止めなければ大変なことになるという強い危機意識を持っていたわけでもありません。その意味では、消極的にではあれ原発を容認してきたと思います。だからこそ、「あんな馬鹿げた戦争」ならぬ「あんな馬鹿げた原発」と過去を全否定することはできないのです。ぼくは脱原発に賛成です。風力や太陽光など自然エネルギーにシフトすべきだと思います。でも「あんな馬鹿げた原発」と過去を全否定する人たちとはどこか違うのです。
 この間の読書会でも原発の話題で盛り上がり、原発容認派の政治家たちを非難する声が多く出ました。自民党・公明党の政権が原発を推進してきたのであり、民主党も基本的に同じだと声高に弾劾するのです。ぼくも口を開けば同じことを言うだろうと思います。でも、その弾劾の仲間に加わる気にはならず、冷めた気持ちでみんなの様子を眺めていました。その「強くてかたい」声に唱和することができないのです。
 なぜ「かたい」と感じるかと言いますと、「正義はわれにあり」と威丈高にひとを攻撃するからです。自分のことを棚に上げて、ひとを非難するからです。


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