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物語に囚われる [『ふりむけば他力』(その109)]

(5)物語に囚われる

 「〈わがもの〉の物語」を信じることにより、われらの日常生活が成り立っていることを見てきました。そのことをはっきり言ってくれたのがルソーですが、しかしそれより2000年以上も前に釈迦がそれに気づいていました。「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』)。あるいは、「(何ものかを)わがものであると執着している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」(『スッタニパータ』)。ルソーは「わがもの」の物語性を指摘するだけですが、釈迦はこの物語に囚われることがあらゆる苦しみの元凶であることを教えてくれます。
 「わがもの」は物語にすぎないことをはっきり自覚することが、その囚われから抜け出ることに他なりません。夢を見ながら、ああ、これは夢だ、と自覚することができましたら、もうその夢に苦しむことはなくなります(依然として夢のなかにあることはこれまでと何も変わりませんが)。さてしかしここに最大の困難があります。夢のなかにある人は、自分の力で「これは夢にすぎない」と気づくことはできないということです。「あれ、これは夢ではないか」と思うこともあるじゃないかと言われるかもしれませんが、その場合はもう半ば目覚めています。半睡半醒の状態で「夢なのか」と思っているのであって、完全に夢のなかにあれば、それが夢であるなどとそれこそ夢にも思いません。それはただひとつの現実であり、だからこそもがき苦しむのです。
 同じように完全に「わがもの」の物語のなかにある人は、それを物語であるなどとはつゆ思わず、それが唯一の現実であると思って悩み苦しむのです。
 ではどのようにして釈迦はそれが物語にすぎないことを知ったのでしょう。もし釈迦がはじめからその物語の外にいたのであれば、それが物語であることは先刻御見通しであり、他の人たちがその物語に囚われて苦しむのを見て、「(何ものかを)わがものであると執着している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」と教えてあげることができたでしょう。しかしそれは釈迦をわれらとはまったく異種の人と見ることであり、仏教を縁なきものとしてわれらから遠ざけることです。

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