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回心といふこと(第16章、第17章) [『歎異抄』ふたたび(その98)]

(9)回心といふこと(第16章、第17章)


  あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。


  第16章は「信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず回心すべし」といい異義を取り上げ、それに対して唯円は、「一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし」と答えています。ここの議論があまり成功していないように思われるのは、「回心」ということばが倫理的な意味と信心の意味の両方をごっちゃにしてつかわれているからです。「あしざまなることをもをかし」たときにする回心は倫理的なものですが、「ただひとたびあるべき」回心とは信心に他なりませんから、この二つは別次元のことがらだと言わざるをえません。


ここで問題としなければならないのは、「あしざまなることをもをかし」たときに「かならず回心すべし」というとき、それが「回心(これは懺悔と同じでしょう)しなければ往生できない」という意味ならば、そうではないということです。これは第14章で「念仏申さんごとに、罪をほろぼさん」とすることが問題とされたのと同じで、念仏して罪をほろぼさなければ往生できないのではないように、信心して懺悔しなければ往生できないのではありません。そうではなく、念仏すればおのずから罪をほろぼすことになるように、信心すればおのずから懺悔することになるのです。


第17章は「辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべし」という異義です。この問題の本質は「真と仮(化)」ということにあります。われらは真に対しては偽しかないと思いがちですが(そこから「辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふ」異義が生まれます)、真に対してはもうひとつ仮があるということ、これです。仮とは真ではありませんが、真へと導く方便手立てということで、辺地往生とは報土往生(これが真の往生です)へ至るための仮の往生です。これはいまだ本願の気づきに至ってはいませんが(したがって本願を疑っていますが)、でもいつの日かかならず気づきに至る道程にあるということです。



タグ:親鸞を読む
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