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お互いさま [『歎異抄』ふたたび(その70)]

(8)お互いさま

 因縁と原因の違いについて、もうひとつ言っておきましょう。因縁は双方向であるのに対して、原因は一方向であるということです。
 「つくべき縁あればともなひ」と言うとき、その縁とは、ある人(弟子)が「よきひと」(師)につく縁であるとともに、「よきひと」がその人をともなう縁でもあります。「はなるべき縁あればはなる」と言うときも、その縁は弟子がその師から離れる縁であるとともに、師がその弟子から離れられる縁でもあり、お互いさまです。一般に縁起は「これあるに縁りてかれあり」と言い表されますが、これは同時に「かれあるに縁りてこれあり」ということであり、「これ」と「かれ」は双方向の関係にあります。ところが原因はそうではありません。「これがあれの原因である」と言うとき、同時に「あれはこれの原因である」ということには決してなりません。「これ」と「あれ」は一方向に不可逆の関係にあります。
 さて、縁は双方向にお互いさまであるということは重要な意味を持ちます。
 原因と結果のように一方向に不可逆的ですと、原因はその結果に責任をもたなければなりませんが、結果には何の責任もありません。しかし「これあるに縁りてかれあり」は同時に「かれあるに縁りてかれあり」ですから、「これ」は「かれ」に責任があるとともに、「かれ」も「これ」に責任があります。「これ」と「かれ」はそれぞれの責任においてお互いさまであるということです。「はなるべき縁あればはなる」という場合、弟子がその師から離れることに責任があると同時に、師もその弟子から離れられることに責任があるということになります。
 「これあるに縁りてかれあり」とは、「これ」と「かれ」がひとつにつながっているということですから、「これ」にだけ責任があって、「かれ」には責任がないということにはならないのです。ある方がこんなふうに言われたことがあります、「ぼくは安倍晋三という人の顔を見ると、どうしようもなく嫌悪感を覚えてしまうのですが、でもそれは、そんなふうに見てしまうぼく自身の問題でもあると思うのです」と。その方は「われあるに縁りてかれあり、かれあるに縁りてわれあり」と感じられているのだと思いました。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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