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「ほとけのいのち」に帰る [「親鸞とともに」その111]

(5)「ほとけのいのち」に帰る

「わたしのいのち」の根拠が「わたしのいのち」であるとき、「わたし」と「わたし」が生きる世界とはまったく別であり、「わたし」はあるとき突然見知らぬ世界にあらわれ、またあるとき忽然としてその世界から去っていくという関係です。しかし「わたしのいのち」の根拠が「ほとけのいのち」であるとき、「わたし」はあるとき「ほとけのいのち」のなかに生を得、またあるとき「ほとけのいのち」のなかで消えていくという具合で、すべて「ほとけのいのち」のなかのことです。ですから、「わたしのいのち」が死ぬということは、どこかに去るということではなく、「わたしのいのち」の根拠である「ほとけのいのち」に帰っていくということです。「わたしのいのち」がそこから生まれてきた故郷である「ほとけのいのち」にまた帰るということです。

先に「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」という親鸞のことばを出しましたが(1)、そのあとにこうあります、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(わたしのいのち)はすてがたく…、なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ほとけのいのち)へはまゐるべきなり」(『歎異抄』第9章)と。「わたしのいのち」が終わることは「こころぼそい」ことであり、「なごりをしい」ことだが、しかし生まれ故郷の「ほとけのいのち」に帰るのだから、心安らかに帰っていけるということです。ここには「無に帰す」という死の怖れはありません。

ここで「帰る」ということについて考えておきたいと思います。「帰る」ということばは、そのことば自身に人の心を安らかにさせる不思議な力があるのを感じます。頭に浮ぶのは童謡「夕焼け小焼け」(中村雨紅作詞)です。

夕焼け小焼けで日が暮れて

山のお寺の鐘がなる

おててつないでみなかえろう

からすといっしょにかえりましょ

帰るところがある安らぎが歌全体からあふれています。


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