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これが本願だと気づく [『一念多念文意』を読む(その141)]

(4)これが本願だと気づく

 源左は若いころから真宗の教えに包まれて育った人ですから、本願がどのようなものであるかはもちろん知っていたでしょう。その意味では既知のものに遇ったということになります。しかし源左が知っていた本願とは経典に書かれた本願であり、親や寺の住職から教えられた本願です。
 正信偈の「法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所、覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪、建立無上殊勝願、超発希有大弘誓、五劫思惟之摂受、重誓名声聞十方(法蔵菩薩、因位のとき、世自在王仏のみもとにありて、諸仏の浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫、これを思惟して摂取す。かさねて誓うらくは「名声、十方に聞こえん」と)」を源左は朝夕となえながら、本願のイメージをつくっていたことでしょう。
 しかし「源左たすくる」の声が聞こえたという経験は、それとはまったく別次元のことに違いありません。彼にとってそれは名状しがたい経験で、まさに未知のものと遭遇したという思いだったことでしょう。だからこそ「家にもどるなり、草も鎌もなげすてゝ御隠居さん(住職)のところに飛んで行って、御領解を話したら“源左そこだ”といわれましてなあ。あゝこゝだらあやあと思って、世界が広いやあになってように安気になりましたいな。不思議なことでござんすがやあ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」(『妙好人 因幡の源左』)。
 御隠居さんのところに飛んで行ったのは、「これはいったい何ごとだろう」と戸惑いながらも、「これがいつも御隠居さんが話してござる本願ではないのか」という直感があってのことでしょう。源左にとって未知との遭遇でありながら、しかし同時に「あゝ、これが本願なのか」という気づきがある。これは、顔も名前も何も知らない人と遇って、「あゝ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思うのとよく似ています。見ず知らずの人でありながら、ずっと前からつながっていると感じるように、「源左たすくる」という声をいまはじめて聞きながら、ずっと前から聞いていたと感じるのです。

タグ:親鸞を読む
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