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人の執心、自力のしん [親鸞の手紙を読む(その129)]

(6)人の執心、自力のしん

 災難に遭い悲嘆にくれている人を見たとき、その人を「あはれみ、かなしむ」こころが生まれます。そしてその人を助けてあげたい、悲しみから救い出してあげたいという気持ちになる。これは人の情としてごく自然なものであり、そして尊いものであるのは間違いないのですが、そのとき「ねばならない」という思いが伴っていないでしょうか。
 テレビのニュースキャスターが、どこかで災害が起こり、多くの人が被害に遭ったというニュースを伝えるとき、悲しげで苦しそうな表情をします。とくに、すぐ前に嬉しいニュース、楽しいニュースがあった、その直後にそのような悲しいニュースを伝えなければならないようなとき、それまでニコニコしていたのに表情が急に変わることがあります。そんなとき、急いで表情を作っていると感じます。このニュースを伝えるときには、この表情で「なければならない」という意識が働いているのを感じるのです。
 「ねばならない」という意識がはたらくとき、自然と眉が上がり、いわゆる「まなじりを決する」表情となります。親鸞が「佐貫と申すところ」で、「衆生利益のために」三部経を千部読もうと決意したときも、まなじりを決していたのではないでしょうか。おそらくはかなり悲惨な状況が目の前に広がっていたことでしょう、これは僧として黙って通り過ぎることはできない、そうだ、三部経を読経しよう、いや、そうしなければなるまいとまなじりを決した。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」こころから衆生利益しなければならないと決意したのです。そして読経をはじめるのですが、そのとき親鸞のこころのなかである声が聞こえた、「それは『自力のしん』ではないのか」と。おまえは自分の力で人々を助けてあげようとしているのではないのか、自分こそそれをしなければならないとうぬぼれているのではないか、ということです。
 念のためにあらためて言っておきますが、困っている人、悲しんでいる人が目の前にいるとき、その人を助けてあげたいというこころが動くのはごく自然のことで、人として尊いことです。ただそのとき「助けてあげ〈なければならない〉」という意識が働いたとき、それは「自力のしん」ではないかということです。念仏は「ねばならない」という意識の彼岸にあります。「ねばならない」という意識を道徳意識と言いますが、念仏は道徳の彼岸にあるということです。

タグ:親鸞を読む
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