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第10回、本文4 [「『証巻』を読む」その102]

(9)第10回、本文4

名義摂対の章の後半です。

(さき)(おん)()()(しん)(とん)(じゃく)自身(じしん)遠離(おんり)無安(むあん)衆生(しゅじょう)(しん)遠離(おんり)供養(くよう)()(ぎょう)自身(じしん)(しん)を説きつ。この三種の法は、障菩提心を遠離するなりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。諸法におのおの障礙(しょうげ)の相あり。風はよく静を()ふ。土はよく水を障ふ。湿はよく火を障ふ。五黒(五逆)・十悪は人天を障ふ(人・天に生まれることの障碍となる)。()顛倒(てんどう)(無常・苦・無我・不浄を常・楽・我・浄と思い誤ること)は声聞の果を障ふるがごとし。このなかの三種は菩提を障ふる心を遠離せずと(通常は「三種の不遠離は、菩提を障ふる心なり」)。〈応知〉とは、もし無障を得んと欲はば、まさにこの三種の障礙を遠離すべきなり。

〈向に無染(むぜん)清浄(しょうじょう)(しん)・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして、(みょう)楽勝(らくしょう)真心(しんしん)を成就したまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。楽に三種あり。一つには()(らく)、いはく五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)所生の楽なり。二つには内楽(ないらく)、いはく初禅・二禅・三禅(色界の四禅天のうちはじめの三禅天)の意識所生の楽なり。三つには(ほう)楽楽(がくらく)(法を聞く楽しみ)、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽(こぎ)ならず、顛倒(てんどう)せざるなり。

障菩提門の三心(遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心)は「遠離障菩提心」におさまり、順菩提門の三心(無染清浄心・安清浄心・楽清浄心)は「妙楽勝真心」におさまると述べています。すぐ前の文とのつながりから、この「妙楽勝真心」とは般若(智慧)すなわち無分別智の心であると理解できます。さてここで目を引きますのは、曇鸞が楽を外楽と内楽と法楽楽の三種に分けて説いているところです。外楽は六識の中の五識から生まれる感覚的な楽で、内楽は六識の最後、意識から生まれる精神的な楽ですが、妙楽勝真心はそのいずれでもなく法楽楽であると言われます。


タグ:親鸞を読む
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