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凡夫としての韋提希 [「信巻を読む(2)」その130]

(7)凡夫としての韋提希

かくして阿闍世による逆害に至り、「梵行品」に説かれていたところにつながってきますが、ここで重要な登場人物の一人として、韋提希夫人に焦点をあわせたいと思います。『観経』でもこの王舎城の悲劇は浄土の教えが説かれるきっかけとなったこととして重要な役割をしていますが、そこでは阿闍世や提婆達多よりも韋提希夫人が主役となります。わが子・阿闍世に幽閉されることになる韋提希が釈迦に救いを求め、それに応じて釈迦が浄土の教えを説くことになるのです。そのように韋提希の要請により浄土の教えが説かれることになったことから、『観経』の注釈者たちはみな韋提希を聖者とするのですが、ひとり善導だけは彼女を煩悩具足の凡夫と見ます。煩悩具足の凡夫である韋提希が浄土の教えにより救われていくことに大事な意味があるとするのです。

凡夫としての韋提希は、たとえば『観経』では、求めに応じてやってきてくれた釈迦に対して次のような愚痴をこぼすところに遺憾なくあらわれています、「世尊、われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる(あなたはどういう因縁で提婆達多などの親戚なのですか)」と。彼女は自分のおかれた境遇に対して、「どうしてこんな」という恨み節を吐き出さざるをえません。凡夫としての面目躍如です。また『涅槃経』においては一つ前の段でこんなふうに言われていました、「この語を聞きをはりて、すでになんぢを生まんとして、身を高楼の上よりこれを地に棄てしに」と。占い師の予言が当たってはたまらないと、阿闍世を亡き者にしようと図ったのです。

ここでも「わがもの」という罪深い観念がはたらいています。自分が産む子は「わが子」だから、自分の裁量でどのようにしてもいいという感覚です。釈迦は『ダンマパダ』でこう言っていました、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」と。「わたしのいのち」はもともと「ほとけのいのち」であるように、「わが子のいのち」もまたもともとは「ほとけのいのち」ですから、それをわが裁量でどのようにしてもいいはずがありません。


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母の髪を牽(ひ)きて [「信巻を読む(2)」その129]

(6)母の髪を牽(ひ)きて

阿闍世は提婆達多から聞いた驚くべき噂が本当かどうかを雨行大臣に問います。

善見太子、ひとりの大臣に問はく、名づけて雨行といふ。〈大王(頻婆沙羅王)、なんがゆゑぞわが字(あざな)を立てんとするに、未生怨と作るや(わたしが未生怨とあざなされるようなったのは、父王が何をしたことによるのか)〉と。大臣すなはちためにその本末(一部始終)を説く。提婆達多の所説のごとくして異なけん。善見聞きをはりて、すなはち大臣とともにその父の王を収(と)つて、これを城の外(ほか)に閉ぢ、四種の兵(ししゅのつわもの、象兵・馬兵・車兵・歩兵)をもつて、しかうしてこれを守衛せしむ。毘提夫人(びだいぶにん、韋提希)この事を聞きをはりて、すなはち王の所に至る。時に王を守りて、人をして遮りて入ることを聴(ゆる)さず。その時に、夫人、瞋恚(しんに、怒り)の心を生じてすなはちこれを呵罵(かめ、叱りののしる)す。時にもろもろの守人、すなはち太子に告ぐらく、〈大王の夫人、父の王を見んと欲(おも)ふをば、いぶかし、聴(ゆる)してんやいなや〉と。善見聞きをはりてまた瞋嫌(しんけん、怒り嫌悪する)を生じて、すなはち母の所に往きて、前(すす)んで母の髪を牽(ひ)きて、刀を抜きて斫(き)らんとす。その時に、耆婆(ぎば)まうして大王にいはく、〈国を有(たも)つてよりこのかた、罪きはめて重しといへども、女人に及ばず。いはんや所生の母をや〉と。善見太子この語を聞きをはりて、耆婆のためのゆゑにすなはち放捨して、遮りて大王の衣服(えぶく)・臥具・飲食(おんじき)・湯薬(とうやく)を断つ。七日を過ぎをはるに、王の命すなはち終りぬと。善見太子、父の喪(そう)を見をはりて、まさに悔心(けしん)を生ず。雨行大臣、また種々の悪邪の法をもつて、しかうしてためにこれを説く。〈大王、一切の業行すべて罪あることなし。なんがゆゑぞいま悔心を生ずるや〉と。耆婆またいはく、〈大王まさに知るべし、かくのごときの業は罪業二重なり。一つには父の王を殺さん、二つには須陀洹(しゅだおん、声聞の修道階位、四階位の第一で、頻婆沙羅はこの位にあったという)を殺せり。かくのごときの罪は、仏を除きてさらによく除滅したまふひとましまさず〉と。善見王いはく、〈如来は清浄(しょうじょう)にして穢濁(えじょく)ましますことなし。われら罪人いかんしてか、見たてまつることを得ん〉と。


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自分の境遇を恨む [「信巻を読む(2)」その128]

(5)自分の境遇を恨む

阿闍世は提婆達多から自分がこの世に生まれてきたときの不吉な噂を吹き込まれます。一つは「この児はかならず父を殺す宿命にある」という占い師の予言があり、そこから未生怨(未だ生まれざるときに怨を抱くもの)という穏やかならぬ名で呼ばれていること、もう一つは母・韋提希がそれを知り、高楼の上から産み落として亡き者としようとしたこと(しかし指を一本折っただけだったことから婆羅留枝という名で呼ばれていること)です。占い師の予言の背景には、前に出てきましたように、父・頻婆娑羅が狩猟をしたとき、獲物が得られない怒りからそこにいた仙人を殺害し、仙人が復讐を誓ったという事実がありました。このような出生にまつわる縁起でもない噂から阿闍世は自分の境遇を深く恨むことになります。

ここで考えておきたいのは、阿闍世ほど劇的なものではなくとも、人は自分の生まれ落ちた境遇に対してあれこれと不満を抱くことについてです。この不満には、どうしてこんな貧しい家に生まれたのか、どうしてこんな父母から生まれたのか、どうしてこんな不細工な顔に生まれたのか、どうしてこうも頭が悪く生まれついたのか、などなど上げていけば切りがありません。自分の生まれは自分で選ぶことができないにもかかわらず、いや、そうだからこそ、あれこれと不満を持つのはどういうわけでしょう。それはもうひとえに、このいのちは「わたしのいのち」であるという思いから出てきます。そしてこの「わたしのいのち」を他の「わたしのいのち」たちと比べて「どうしてこんな」という不満が生まれるのです。

しかし「わたしのいのち」はもとから「わたしのいのち」ではありません。それはもともと誰のものでもなく「ほとけのいのち」です。「ほとけのいのち」がたまたまこの「わたしのいのち」を生きているのにすぎません。そのことに気づきますと(それが信心です)、どのような「わたしのいのち」であれ、それは「ほとけのいのち」に他なりませんから、いま「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生かせていただいていることを忝く思いこそすれ、不満を抱くことはないでしょう。


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未生怨(みしょうおん) [「信巻を読む(2)」その127]

(4)未生怨(みしょうおん)

釈迦に報復を誓った提婆達多は、再び阿闍世のもとに姿をあらわし、父王の殺害を唆します。

時に提婆達多、すなはち起(た)ちて善見太子の所に往至す。善見見をはりてすはなはち聖人(提婆達多)に問はく、〈なんがゆゑぞ顔容(げんよう)憔悴して憂への色あるや〉と。提婆達多いはく、〈われつねにかくのごとし。なんぢ知らずや〉と。善見答へていはく、〈願はくはその意(こころ)を説くべし。なんの因縁あつてか、しかる(どういうわけでそんなに顔色悪く、憂えておいでになるのですか)〉と。提婆達のいはく、〈われいまなんぢのために、きはめて親愛をなす。外人(宮廷外の人)なんぢを罵(の)りて、もって非理とす(道理から外れたものと罵っている)。われこの事(じ)を聞くに、あに憂へざることを得んや〉と。善見太子またこの言をなさく、〈国の人いかんぞわれを罵辱(めにく)する〉と。提婆達のいはく、〈国の人なんぢを罵りて未生怨(みしょうおん、いまだ生まれざる時に父に怨を抱いていた者)とす〉と。善見またいはく、〈なんがゆゑぞわれを名づけて未生怨とする。たれかこの名をなす〉と。提婆達のいはく、〈なんぢいまだ生まれざりし時、一切の相師(占い師)みなこの言をなさく、《この児生れをはりて、まさにその父を殺すべし》と。このゆゑに外人みなことごとくなんぢを号して未生怨とす。一切内の人(宮廷内の人)、なんぢが心を護るがゆゑに、いうて善見とす。毘提夫人(びだいぶにん、韋提希)この語(占い師のことば)を聞きをはりて、すでになんぢを生まんとして、身を高楼の上よりこれを地に棄てしに(高楼から地上に生み落としたが)、なんぢ一つの指を壊(やぶ)れり。この因縁をもつて、人またなんぢを号して婆羅留枝(ばらるし、指の折れた者)とす。われこれを聞きをはりて心に愁憤(しゅうふん)を生じて、またなんぢに向かひてこれを説くことあたはず〉と。提婆達多、かくのごときらの種々の悪事をもつて、教へて父を殺さしむ。〈もしなんぢが父死せば、われまたよく瞿曇沙門を殺さん〉と。


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調伏するということ [「信巻を読む(2)」その126]

(3)調伏するということ

ここで注目したいのは「調伏」ということばです。提婆達多は釈迦のもとに出向き、弟子たちを自分にまかせてもらいたい、そうすれば「われまさに種々に法を説きて教化して、それをして調伏せしむべし」と持ちかけるのですが、この調伏ということばからすぐ連想されるのが日蓮の折伏です。調伏にせよ折伏にせよ、人を言い負かしてひれ伏させるというニュアンスですが、考えたいのは、仏法は人を言い負かしてひれ伏させるものかどうかということです。日蓮なら、謗法のものがいるときに(たとえば法然)、それを言い負かしてひれ伏させることこそ肝心であり、もしそれをしないなら、謗法に手を貸すことになるではないかと言うことでしょう。しかし仏法とはそのようなものか、ぼくが日蓮に懐く根本的な違和感はそこにあります。

相手を言い負かすということは、真理はこちらにあることを証明するということです。真理はどこかにあり、それを自分がつかんでいることを相手に有無を言わさず認めさせること、これが調伏(折伏)です。さてしかしそもそも仏法という真理はどこかにあり、それをわれらがつかみ取るようなものかどうか、これが問題です。真理と言われるものの大半はそのようなものでしょう。学者も政治家も、そして実業家も法律家もみな如何にして真理を自分のものとすることができるかに血道を上げています。「わがもの」という罪深い観念はここでも猛威を奮っているのです。

仏法はしかしそのような真理でしょうか。仏法という真理がどこかにあり、それをつかみ取ったものが、つかみ取っていないものを調伏するのでしょうか。そうではないということをこれまで繰り返し述べてきました。仏法という真理(すなわち弥陀の本願)は、われらがそれをつかみ取るのではなく、その真理がわれらをつかみ取るのです。われらは気がついたらそれにつかみ取られているのです。誰かが誰かを調伏するのではありません、真理がわれらを調伏するのです。そして真理に調伏されたものは、その前に深く頷くしかありません。


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教団の乗っ取り [「信巻を読む(2)」その125]

(2)教団の乗っ取り

これまでは阿闍世による父王殺害後のことでしたが、これからの話はそれが起こる前に遡り、どんな経緯で事件に至ったのかが語られます(前は『涅槃経』「梵行品」からの引用でしたが、いまは「迦葉品」からです)。そしてここで主役となるのが提婆達多です。釈迦の従兄弟で阿難の兄にあたり、釈迦に弟子入りしていましたが、のちに背き、500人の弟子を率いて伽耶山に住みます。そして釈迦教団の乗っ取りを図り、崖の上から岩を転がして釈迦を殺そうとするのですが、岩は途中で止まり、釈迦はその欠片で足に傷を負っただけでした(五逆罪の一つに「仏出身血」がありますが、それはこのことを指します)。そこで提婆達多は阿闍世に近づき、ともに力をあわせてマガダ国の聖俗の権力を握ろうと画策します。

つづきを読みましょう。

また(提婆達多は)この念をなさく、〈われいままさに如来の所(みもと)に往至して大衆を求索(ぐしゃく、もとめる)すべし。仏もし聴(ゆる)さば、われまさに意(こころ)に随ひて教えて、すなはち舎利弗(釈迦十大弟子の一人、智慧第一)等に詔勅すべし〉と。その時に、提婆達多、すなはちわが所に来りてかくのごときの言をなさく、〈やや、願はくは如来、この大衆をもつてわれに付嘱(ふぞく、まかせる)せよ。われまさに種々に法を説きて教化して、それをして調伏(じょうぶく、教え導いて信服させる)せしむべし〉と。われ痴人(ちにん、提婆達多のこと)にいはく、〈舎利弗等、大智を聴聞して(高麗版大蔵経では「聴聞」は「聡明」で、「聡明大智にして」となる)世に信伏するところなり。われなほ大衆をもつて付嘱せじ。いはんやなんぢ痴人、唾(つばき)を食らふものをや(そなたのような愚か者にどうしてまかすことだできようか)〉と。時に提婆達多、またわが所においてますます悪心を生じて、かくのごときの言をなさく、〈瞿曇(くどん、ガウタマの音訳、釈迦の姓)、なんぢいままた大衆を調伏すといへども、勢ひまた久からじ。まさに見るに磨滅すべし〉と。この語をなしをはるに、大地即時に六反(ろっぺん)震動す。提婆達多、すなはちの時に地にたおれて、その身の辺より大暴風を出して、もろもろの塵土を吹きてこれを汚坌(わふん、よごす)す。提婆達多、悪相を見をはりて(自分の見苦しい姿をみて)、またこの言をなさく、〈もしわれこの身、現世にかならず阿鼻地獄に入らば、わが悪まさにかくのごときの大悪を報ふべし(高麗版大蔵経では「悪」は「要」で、「われ要(かなら)ず、まさにかくのごときの大怨を報ふべし)」となる)〉と。


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提婆達多という人 [「信巻を読む(2)」その124]

第11回 大悲の弘誓を憑(たの)み、利他の信海に帰す

(1)提婆達多という悪人

阿闍世の救済の物語は前回のところで結末を迎えたように思えましたが、まだその続編があります。

またのたまはく、「善男子、羅閲祇(らえつぎ、ラージャグリハの音訳、王舎城のこと)の王頻婆沙羅(びんばしゃら)、その王の太子、なづけて善見(阿闍世のこと)といふ。業因縁(業縁、宿業のこと)のゆゑに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに、しかるに便りを得ず。その時に、悪人提婆達多(だいばだった)、また過去の業因縁によるがゆゑに、またわが所において不善の心を生じて(わたし釈迦によからぬ思いを抱いて)、われを害せんとす。すなはち五通(五神通、天眼通・天耳通・宿命通・他心通・神足通)を修して、久しからずして善見太子とともに親厚たること(親しくなること)を獲得(ぎゃくとく)せり。

太子のためのゆゑに、種々の神通の事を現作(げんさ)す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。ある時は象・馬(め)・牛(ご)・羊(よう)・男(なん)・女(にょ)の身を示現す。善見太子見をはりて、すなはち愛心・喜心・敬信(きょうしん)の心を生ず。これを本とするがゆゑに、種々の供養の具を厳設(ごんせつ)しこれを供養す。またまうしてまうさく、〈大師聖人(ここでは阿闍世が提婆達多のことを敬ってそう呼ぶ)、われいま曼陀羅華(まんだらけ、天上の華)を見んと欲(おも)ふ〉と。時に提婆達多、すなはち往きて三十三天(忉利天)に至りて、かの天人に従ひてこれを求索(ぐしゃく)するに、その福尽くるがゆゑにすべて与ふるものなし。すでに華を得ず。この思惟(しゆい)をなさく、〈曼陀羅樹は我・我所なし(我とか我がものということがない)、もしみづから取らんにまさになんの罪かあるべき〉と。すなはち前(すす)んで取らんとするに、すなはち神通を失へり。還りて己身を見れば(ふと気がついてみると)、王舎城にあり。心に慚愧を生じ、また善見太子を見ることあたはず(恥ずかしくて阿闍世に会うことができなかった)。


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いのちは誰のものでもない [「信巻を読む(2)」その123]

(14)いのちは誰のものでもない

本願の信心(気づき)は「いま」おこりますが、しかし実はそれはもうとうの昔にすでにおこっていたということについて、『涅槃経』の所説から自由に、想像の翼を大きく広げてみたいと思います。

われらはいまそれぞれの「わたしのいのち」を生きていますが、そのもとはといいますと「ほとけのいのち」です。「ほとけのいのち」の海のなかにそれぞれの「わたしのいのち」が生まれたのです(そしていずれまた「ほとけのいのち」の海に帰っていきます)。ところがわれらは「わたしのいのち」のもとは「ほとけのいのち」であることをすっかり忘れ、忘れたこと自体を忘れています。そしてこの「わたしのいのち」はもとから「わたしのいのち」であると思い込んでいます。われらは「わがもの」という観念に囚われているのです。

ところがあるとき、「わたしのいのち」はもともと「わたしのいのち」などではなく、誰のものでもないことに気づかされます。

ルソーが土地はもともと誰のものでもなく、みな勝手に柵を廻らし「これはオレのものだ」と宣言しているだけだと喝破してくれましたが、そのように「いのち」もまた誰のものでもなく、それぞれがこれは「わたしのいのち」だと思い込んでいるだけだと気づかされるのです。この気づきは「わたしのいのち」がおこすことはできず、ただ「ほとけのいのち」からおこされます(「わたしのいのち」はそのことに気づかされます)。これが「ほとけのいのち」に遇うということであり、そしてそれが本願に気づくことに他なりません、本願とは「ほとけのいのち」の願いですから。

さてこのように「わたしのいのち」のもとは「ほとけのいのち」だという気づきは「いま」おこりますが、そのとき思い至りますのは、実はずっと昔からそのことに気づいていたはずだということです。何しろ「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」の海のなかに生まれたのですから。ところがそのことをすっかり忘れ果てていたのですが、あるときふと蘇るのです。これが本願の信心(気づき)ですから、それは「いま」おこりますが、実はもうとうの昔におこっていたことなのです。

(第10回 完)


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もし人ありてよく菩提心を発せん [「信巻を読む(2)」その122]

(13)もし人ありてよく菩提心を発せん

阿闍世の語を受けて、釈迦が阿闍世をほめます。

その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまはく、〈善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発(ほっ)せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆(だいしゅ、説法の場に集まった人たち)を荘厳(しょうごん、麗しく飾る)すとす。大王、なんぢ昔すでに毘婆尸仏(びばしぶつ、過去七仏の第一)のみもとにして、はじめて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これよりこのかた、わが出世に至るまで、その中間(ちゅうげん)においていまだかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王まさに知るべし、菩提の心、いましかくのごとき無量の果報あり。大王今より以往(これから先)に、つねにまさにねんごろに菩提の心を修すべし。なにをもつてのゆゑに。この因縁に従つてまさに無量の悪を消滅することを得べきがゆゑなり〉と。その時に、阿闍世王および摩伽陀国の人民こぞって座よりして起(た)ちて、仏を繞(めぐ)ること三帀(さんぞう、右回りに三周すること)して、辞退して宮に還りにき」と。以上抄出 

先に、『涅槃経』で第一義諦と言われるものは、親鸞にとっては弥陀の本願であると述べましたが、ここで菩提心と言われるのも、親鸞的には本願の信心と理解するべきでしょう。最初に「善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆を荘厳す」と言われるのは、もし人が本願の信心(気づき)を得ることができれば、諸仏だけでなくその場にいる人たちみなを喜ばせるだろうということです(『大経』で言いますと「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなはちわがよき親友なり」ということです)。

さてここで言われているのは、阿闍世のように「いま」本願の信心を得ることができた人は、実はもうずっと昔に(「すでに毘婆尸仏のみもとにして」)それを得ているのだということです。これをどう理解すればいいのでしょう。


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第一義諦 [「信巻を読む(2)」その121]

(12)第一義諦

この阿闍世のことばを聞きますと、つい先ほどまで阿鼻地獄に堕ちるのではないかと怖れ、「耆婆、われなんぢと同じく一象に載らんと欲ふ」と言っていた人と同じ人かと思うほどの変わりようです。「無根の信」を得ることにより「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念に即生す)」(善導『往生礼讃』)して、これまでの古い阿闍世は死に、まったく新しい阿闍世が生まれたと言うべきです。「われいま仏を見たてまつることを得たり」という喜びは、「また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること」ができますようにという願いになっています。阿闍世はすでに個人の位相から衆生の位相へと移っているのです。

衆生とはこの場合、単に個人の集まりではありません。個人をどれだけ集めても、それはあくまでも個人の集合にすぎず、衆生ではありません。衆生の位相に移ったということは「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」と思えるようになったということです。「いま仏を見たてまつることを得た」阿闍世が「願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること」ができますようにと願うということは、彼が「ほとけの願い」に救われたのであるとともに、「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」という位相に立つことで、彼自身が「ほとけの願い」を「わたしの願い」とするようになったということです。

さてここで「如来の語は一味なること、なほ大海の水のごとし。これを第一諦と名づく」とありますが、親鸞はこの「第一(義)諦」を弥陀の本願と読んでいるのは間違いありません。『涅槃経』においては釈迦如来が久遠の仏であり、釈迦如来の説かれることが第一義諦ですが、親鸞は『大経』の立場で『涅槃経』を読んでいますから、弥陀如来の本願が第一義諦であり、釈迦は「ただ弥陀の本願海を説かんとなり」(正信偈)ということになります。弥陀と釈迦は同じ位相に並んで存在するのではありません、弥陀は永遠の相にいて、釈迦は時間の相にいます。そしてわれらは時間の相にいる釈迦のことばを通して、そのなかから永遠の弥陀のことばを聞くことができるのです。


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