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かならず仏となるべき身となる [「『証巻』を読む」その5]

(5)かならず仏となるべき身となる

第十一願の本質は「来生の滅度」にではなく「今生の正定聚」にあることを見てきましたが、では正定聚とはどういうことでしょう。それは先の「即の時に大乗正定聚の数に入るなり」にすぐつづけて、「正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」と述べられているなかに答えがあります。正定聚とは「かならず滅度に至る」ことが定まっている位です。このように「正定聚に住する」ことと「かならず滅度に至る」ことは同じ意味だとしますと、先の第十一願の本質は何かという問いは、「来生に滅度に至り仏となること」と「今生に正定聚となり、かならず仏となるべき身となること」のどちらがより重要であるかということです。

どちらでも同じように見え、無益な争いをしているように思えます。しかし、よくよく考えてみますと、「来生に仏となる」と言う場合と、「今生にかならず仏となるべき身となる」と言う場合とでは、それを言うときの立ち位置が違っています。「来生に仏となる」と言う場合は、今生と来生の両方を見通せる位置に立っていますが、「今生に、かならず仏となるべき身となる」と言う場合は、あくまで今生に身を置いています。さてわれらは残念ながら今生と来生の両方を見通せる位置には立てません。来生のことを知ることはかないませんから、誰かが「来生に仏となる」と言うとしますと、「あなたはどこに立っておられますか」と尋ねたくなります。

しかし「今生に、かならず仏となるべき身となる」ことについても、どういう根拠でそんなことが言えるのかと問われることでしょう。この問いについては龍樹が次のように答えています、「初地の菩薩(本願の信心を得た行者と読み替えましょう)多く歓喜を生ず。余はしからず。なにをもつてのゆゑに。余は諸仏を念ずといへども、この念をなすことあたはず、われかならずまさに作仏すべし(仏になる)と。たとえば転輪聖子(理想的な王である転輪王の子)の、転輪王の家に生れて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念をなさん、われいままたこの相あり。またまさにこの豪富尊貴を得べし。心大きに歓喜せん」(『十住毘婆沙論』)と。


タグ:親鸞を読む
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