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本文14 [はじめての『尊号真像銘文』(その71)]

(1)本文14

 唐朝光明寺善導和尚真像銘文 智栄讃善導別徳云、「善導阿弥陀仏化身 称仏六字即嘆仏即懺悔 即発願回向 一切善根 荘厳浄土」

 唐朝、光明寺の善導和尚の真像の銘文。智栄善導の別徳をほめたもうていわく、「善導は阿弥陀仏の化身なり。仏の六字を称せば、すなわち仏を嘆ずるなり。すなわち懺悔するなり。すなわち発願回向なり。一切善根、浄土を荘厳するなり」。

 「智栄(ちよう)」と申すは、震旦(しんたん、中国)の聖人也。善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなわち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。「一切善根 荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根をおさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなわち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。智栄禅師、善導をほめたまへるなり。

 「智栄」と言いますのは、中国の聖人です。善導の優れた徳をほめて、「善導は阿弥陀仏の化身だ」と言われました。「仏の六字を称せば」と言いますのは、南無阿弥陀仏の六字を称えるということです。「すなわち仏を嘆ずるなり」と言いますのは、南無阿弥陀仏を称えることは仏をほめることになるということです。また「すなわち懺悔するなり」と言いますのは、南無阿弥陀仏と称えることははかり知れない昔からの罪業を懺悔することに他ならないということです。「すなわち発願回向なり」と言いますのは、南無阿弥陀仏と称えることは、安楽浄土に往生したいと願うことだということです。また、一切衆生にこの功徳を与えることになるということです。「一切善根、浄土を荘厳するなり」と言いますのは、阿弥陀の三字にすべての善根がおさめられていますから、名号を称えることは、そのまま浄土を荘厳することになるというのです。智栄禅師が、このように善導をほめているのです。

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