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一心とは如来回向の信心 [『教行信証』「信巻」を読む(その66)]

(4)一心とは如来回向の信心


では信が「われらの領分」にあるとはどういうことか。これが信心はわれらがおこすものであるということでないのはあらためて言う必要がないでしょう。ではこれで何を言いたいのかといいますと、本願の名号が如来の行として回向されること、すなわち如来の「ねがい」が「こえ」としてわれらに届けられるのを、われらがしかと聞受することが信心であり、これは「われらの領分」にあるということです。如来の「ねがい」が「こえ」としてわれらに届けられても、われらがそれを受けとめなければ、如来の回向は何のはたらきもすることができません。そしてそれを受けとめるのはあくまでも「われら」です。われらの力で受けとめるのではありません、受けとめること自体が本願名号の力によりますが、それでも受けとめるのはあくまでも「われら」であることは動きません。


本願名号という如来の行がなければ信がないのは当然ですが、しかし同時に、信がなければ如来の行もありません。このように行と信はそれぞれの領分がありながら、ひとつにつながっています。


「一心専念」にもどりますと、この「一心」がただ「一心不乱に」という意味でしたら、そこに信心がない可能性もあり、その場合にはその念仏は自力の念仏となります。こちらから念仏を回向することにより往生しようとしているということです。「一心」が「如来回向の信心」であってはじめて「専念」も自力の念仏ではなくなります。本願名号がわが身に届き、そのはたらきで申している念仏ですから、その念仏はもはやわれらの行ではありません。そこにはもはやわれらのはからいはなく、南無阿弥陀仏の大合唱のなかにおのずから加わっているだけです。


念仏が「われらの回向」か、それとも「如来の回向」か、ここにすべてがかかっていると言えます。「われらの回向」でしたら、その念仏は「自力の念仏」ですが、「如来の回向」でしたら、その念仏は「他力の念仏」です。そのとき南無阿弥陀仏はわれらの口から出ているとはいえ、われらが出しているのではありません、南無阿弥陀仏がおのずから出てくるのです。「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せず」です。





タグ:親鸞を読む
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