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なにによりてか西にある [はじめての『高僧和讃』(その51)]

(9)なにによりてか西にある

 次の二首は一体です。

 「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある」(第23首)。
 「ときの皇帝いでまして、浄土のいわれ問いたまう。あまた仏国あるなかで、いかなるわけで西という」。

 「鸞師こたへてのたまはく わが身は智恵あさくして いまだ地位(じい)にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」(第24首)。
 「曇鸞大士こたえては、わが身の智慧はまだ浅く、いまだ地位にあらざれば、西方えらぶほかはなし」。

 第24首の「地位」とは、菩薩道52位のなかの41位、すなわち龍樹が歓喜地と名づけた初地のことで、不退の位です。龍樹や天親はこの位にあり、菩薩とよばれますが,自分はいまだそこまで至っていませんと述べているのです。さて、「どうして西方浄土か?」というこの問いは、釈迦の説いたさまざまな教えのなかで、なぜ阿弥陀仏の本願の教えなのかということです。この問いはさらにその射程を延ばして、「世界の数ある宗教の中でなぜ仏教か」と問うこともできるでしょう。
 こうした問いにどう答えたらいいか。普通は、甲と乙を比較して、かくかくしかじかの理由で甲は乙に勝ると答えるものでしょう。浄土と禅を比較して、浄土はこういうわけで禅に勝るとか、仏教をキリスト教と比較して、仏教はこんな理由でキリスト教より優れている、というように。ところが曇鸞はと言いますと、「わたしは智恵が浅く、あらゆるものを比較して、どれがどれより優れていると判断するだけの才覚がありません」と答えています。これはただ謙遜しているだけでしょうか、それとも困難な問いから逃げているのでしょうか。どちらとも思えません。

タグ:親鸞を読む
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