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至心(真実)とは如来なり [『教行信証』「信巻」を読む(その108)]

(12)至心(真実)とは如来なり

『涅槃経』では、真実とは如来であり、また虚空であり、さらに仏性であると説かれますが、これは何を言おうとしているのか、もう少し考えておきましょう。まず真実とは如来であるということですが、これは、われらには真実はなく、真実はみな如来から賜るものであるとこれまで言ってきたことに他なりません。経典に説かれている真実のことばが如来の真実のことばであるのはもちろんですが、たとえば親鸞が語る真実のことばも、それは親鸞自身のことばではなく、如来から親鸞にやってきた真実のことばであるということです。誰が語るとしても、いやしくもそれが真実のことばであれば、みな如来から発信されているということです。なぜかと言えば、「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」であるからです。

次に真実とは虚空であるとされるのは、先に真実は如来であると言われたことから、それをどこかにあるもの(実体)ととらえてはいけないということでしょう。すなわち真実である如来は虚空のようにあらゆる処に遍満しており、あるいは海のようにあらゆるものをその内に包み込んでいるということです。あらゆるものが如来の海のなかで生かされているのです。最後に真実とは仏性であると言われているのが分かりにくいですが、親鸞は『涅槃経』で仏性と言われているものを「如来回向の信心」と理解します。たとえば『唯信鈔文意』にこうあります、「仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」と。これで見ますと、微塵世界にみちみちたまえる如来がわれらの心のなかにやってきて信心となった姿がすなわち仏性であるということです。

かくして至心すなわち真実とは如来に他ならず、それがわれらの心にやってきて信心となるということになります。これが至心とは如来から回向された真実の心であるという意味です。

(第10回 完)


タグ:親鸞を読む
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