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報の浄土に生ずるものはきはめて少なし [「『正信偈』ふたたび」その101]

(3)報の浄土に生ずるものはきはめて少なし

源信は『往生要集』の最終章「問答料簡(りょうけん)」において、阿弥陀仏の報土に生まれるものはきわめて少ないという問題を取り上げています。そしてその問題に答えるのに、「専修と雑修」および「報土と化土」を組み合わせて、専修のものは報土に往生できるが、雑修のものは化土に生まれると言うのです。まずこう問います、『菩薩処胎経』という経典には、阿弥陀仏の国に生まれたいと思うものの、多くのものはその手前にある懈慢界(けまんがい)という化土に執着してしまい、その先の阿弥陀仏の国に生まれるものはごくわずかであると説かれているが、念仏すれば誰でも(十悪五逆の悪人も)阿弥陀仏国に生まれることができるのではないのだろうかと。

そしてこれに懐感(えかん、善導の弟子です)の『群疑論』を引いてこう答えます、「雑修のものは執心不牢(しゅうしんふろう、信心が固まっていない)の人とす。このゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業(称名)を行ぜば、これすなはち執心牢固(信心が確固としている)にして、さだめて極楽国に生ぜん」と。そして「報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず」と言います。これが「専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり」ということです。専ら念仏を修して往生できるという信心がしっかりしていれば、その人は報土に往生できるが、その信心が明確ではなく、とにかくさまざまな行をまじえて修することにより往生できると考える人は化土にとどまるということです。

源信はこう言うのみで、それ以上にことの本質を掘り下げようとはしていませんが、それをしてくれたのが後の法然であり、そして親鸞です。法然が先に上げた『観経疏』「散善義」のことば「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆえなり」を読んで目からうろこが落ち、山を降りて専修念仏の道を歩みはじめたという逸話は有名ですが、このとき法然のこころのなかで何が起こったのでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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