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永遠のいま [『一念多念文意』を読む(その42)]

(12)永遠のいま

 ぼくらはともすると「ただいま」坐禅をするのは「これから」悟りを得るためと考えます。そうしますと悟りを得てしまえばもう坐禅の必要はないということになります。さあしかし、悟りを得たとはいえ、それで人生が終るわけではありません。坐禅をしないとなると、そのあと何をして生きればいいのでしょう。
 悟りをえるための坐禅という考えには根本的に無理があると言わなければなりません。やはり道元の言うように、坐禅することと悟りを得ることは別ではないでしょう。としますと、「ただいま」坐禅することの中に「これから」悟りを得ることが収まっているということになります。
 「ただいま」の中に「これから」が収まっているから、たとえどんな境遇に見舞われてもこころが折れてしまわないですむのではないでしょうか。
 「ただいま」は「これから」のためにあるとしますと、いつも「これから」を見つめつづけなければなりません。今日は明日のためにあり、明日はまた明後日のためにある。そして明後日はまた…。何だか目の前にニンジンをぶら下げられて走り続けさせられる馬のようではありませんか。
 その道程でちょっとしたトラブルがありますと、途端にこころが折れてしまう危うさがあります。しかし「ただいま」の中に「これから」が収まっているとしますと、もうどんなトラブルがあってもオタオタすることはないでしょう。「ただいま」はそれだけで自足しているのですから。
 「ただいま」の中に「もうすでに」過ぎた時間の重さが畳み込まれ、さらに「これから」のすべてが収められている、これが「よこさまにこえて」ということです。

               (第3回 完)

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