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仏意測りがたし [『教行信証』「信巻」を読む(その98)]

(2)仏意測りがたし

さて親鸞はこの仏意釈をはじめるに当たり、「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに」と述べていますが、この躊躇いともいうべき心の動きについて考えておきたいと思います。

といいますのも、浄土関係の書物を読んでいますと、もう躊躇いなどというものとは無縁の言説にしばしばお目にかかるからです。阿弥陀仏について、またその浄土について、あたかもわが目で見てきたかのようにトクトクと語る言説に出あいますと、その方に尋ねたくなります、「失礼ながら、あなたはいまどこに立っておられますか」と。それとは対照的に「あゝ、この人の言うことにはまことがある」と唸らざるを得ないのが清沢満之という人です。たとえば死の直前に書かれた「わが信念」。彼はこう言います、「如何なる幸福も此の信念(彼は信心ということばをつかいません、普通の日常語で語ろうとします)の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はマダ(ママ)実験しないことであるから、此処に伸ることは出来ぬ」と。

満之はあくまで「私」が実験した(実地に確かめた、ということでしょう)ことについてだけ語ろうとしていますが、ここに彼の言うことがわれらの心を打つ源があると思います。もう一つ、われらの心に響くことばを上げておきましょう。「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」という源信のことばです。源信もまた阿弥陀仏がわれらを摂取する光明をわが目で見ることができないとはっきり言います。満之なら「私はマダ実験しないこと」と言うことでしょう。このように言うことで、この人の語ることは地に足がついていると思わせてくれます。その上で源信はいいます、「大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。これは「私」源信が「毎日毎夜に実験しつつある所」で、だれが何と言おうと確かなことであるということです。


タグ:親鸞を読む
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