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『歎異抄』を読む(その127) ブログトップ

9月20日(木) [『歎異抄』を読む(その127)]

 第12章はかなり長い文章ですので、四段に分けて読んでいきたいと思います。まずは第一段。
 経釋をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと、この条すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまうさば仏になる、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことにこのことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釋をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして経釋のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり。難行となづく。あやまて学問して名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらんといふ証文もさふらふぞかし。
 経典や論釈を読んで学んでない者は往生できるかどうか分からないということについて。これはいかにも不十分な考えであると言わなければなりません。他力の真実を解き明かしている諸々の聖教は、本願を信じて念仏を称えれば仏になると説いているのですから、その他にどんな学問が必要なのでしょうか。なるほど、この点に迷っている人は、しっかり学問して本願のいわれを知らなければなりません。経典や論釈を読んで学んでも、そのこころが分からないというのは、何とも哀れなことです。文字を知らず経典や論釈を読めない人のために、称えやすいようにと名号を与えてくださったのですから、易行というのです。学問を中心とするのは聖道門で、難行といいます。勘違いして学問することで名誉や利益を得ようとしているような人は、次の世で往生できないかもしれないという文書もありますよ。

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