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輪廻を断つ [「信巻を読む(2)」その39]

(4)輪廻を断つ

仏教は無我の教えです。実体としての「われ」(梵語で「アートマン」)は存在しないという立場ですが、輪廻転生とは姿かたちは変わっても「同一なるもの」が生死をくり返すということですから、それは「アートマン」を前提してします。ですから両者は真正面からぶつかると言わなければなりません。かくして仏教は輪廻を否定するという形でしかそれを自分のなかに取り込むことはできないということになり、実際ここでも「生死を断絶す」と言われていますように、仏教は輪廻を断つことをめざしているわけです。

さて問題はこの「輪廻を断つ」とはどういうことかです。

輪廻転生は世界のリアルなありようであるとしますと、それを断つということは、この世界から飛び出て、もはや輪廻のない別の世界に入るということになるのでしょうか。そういうことだとしますと、ここに深刻な問いが浮び上がります。それは、この世界から出て、輪廻のない別の世界に入るのは誰かということです。それは「われ」以外にはありませんが、ということは、これは新手の輪廻ということにはならないでしょうか。「われ」はこれまで六道を輪廻してきましたが、いまやその輪廻を断ち切って、もはや輪廻することのない世界に入るということですから、一つ次元が上がるかもしれませんが、「われ」が別の世界で生まれ変わるという点ではこれまでの輪廻と本質的な違いはないと言わなければなりません。

以上のことから、無我の立場を貫こうとする限り、輪廻を世界のリアルなありようとすることはできないという結論になります。では輪廻とは何か。考えられる答えはただ一つ、輪廻とは「囚われ」であるということです。われらは輪廻という観念に囚われ、この生が終われば、また別のかたちに生まれ変わるものと思い込んでいるということであり、したがって「輪廻を断つ」とは、それが囚われであることに気づくということです。輪廻は囚われにすぎないと気づいたそのとき、もはやわれらは輪廻に支配されることはありません。これが「横さまに生死を断つ」ということです。


タグ:親鸞を読む
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