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「『おふみ』を読む」その7 ブログトップ

第1通第2段 [「『おふみ』を読む」その7]

(7)第2段

第1通の第2段です。

答ていわく、この不審もっとも肝要とこそ存じ候え。かたのごとく耳にとどめおき候分、もうしのぶべし。きこえめされ候え。故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ」とおおせられつるなり。されば、とも同行(どうぎょう)なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。されば、ちかごろは大坊主分のひとも、われは一流の安心(あんじん)の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに、信心の沙汰する在所へゆきて、聴聞し候ひとをば、ことのほか説諫(せつかん)をくわえ候て、或はなかをたがいなんどせられ候あいだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をばかようにあいささえ候あいだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくように候こと、まことに自損損(じそんそん)()のとが、のがれがたく候。あさまし、あさまし。

(現代語訳) お答えします。この疑問はまことに大事ですので、わたしがお聞きしてきたことを一通りでも申し述べたいと思います。よくお聞きください。親鸞聖人は「弟子をひとりとしてもっておりません」と言われました。「なぜなら、弥陀の教えを皆さんに説くときは、ただ弥陀の代官をつとめているだけで、なにか目新しい教えを言うでもなく、ただ弥陀の教えを自分も信じ、人にもお聞かせしているだけですから、どうして弟子などと言えるでしょうか」と。としますと、友であり同行と言うべきでしょう。聖人は御同朋・御同行と敬われておりました。このごろの大きな寺の坊主のなかには聖人の信心のおもむきを知らないで、弟子のなかで他所の説教を聴聞したりする人がありますと、ことのほか叱責したり、仲をたがえたりしているようですが、これは坊主もしっかりと信心のあり方を聴聞せず、また弟子をもさまたげて、自他ともに信心が定まらず、一生がむなしくすぎていくということです。これではまことに自他を損なうという罪から逃れられません。哀れなことです。


タグ:親鸞を読む
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