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信心が起るとは [はじめての『尊号真像銘文』(その52)]

(14)信心が起るとは

 本願の信心をえたそのとき往生がはじまる(「即得往生」)というのはどういうことかを考えているのでした。往生がはじまるまでの人生と、はじまってからの人生はくっきり分かれますが、そのときいったい何が起こっているのかということです。もちろん信心が起っているのですが、さて信心が起るというのはどういうことか。これまでのところから、本願の信心というのはわれらが本願をゲットするのではなく、逆に本願にゲットされることであり、われらは本願にゲットされて本願のひとになるということが明らかになりました。南無阿弥陀仏に染まった染香人になるのです。
 何かが起るといいますと、あることが原因となり、ある結果が生じることだと思います。それをいまの場合に当てはめますと、信心が原因となり、往生という結果が生じるとなります。それは、われらが信心という原因をつくりだすことによって、これまで存在しなかった往生という結果が新しく生まれてくるということだと考えるのですが、どうやらこの構図がすべての困難の元凶のようです。まず信心とはわれらが往生の原因となることをつくりだすことではありません。信心とは、むしろ、往生が起ることを妨げていた何かが取り去られることです。
 往生を妨げていた何かというのは無明です。この無明という厚い黒雲が全天を覆って、見えるはずのものが見えなくなっていたのです。ところがあるときこの雲がさーっと吹き飛んで、これまで見えなかったものが見えてくる。無明という黒雲を自分で吹き飛ばすことはできません。そもそも曠劫よりこのかた無明のなかにいたものが、無明の中にいると思うはずはなく、したがって無明から抜け出そうとするわけがありません。夢のなかにいる人が夢から抜け出そうとしないのと同じです。無明の闇が晴れるのは「おのづから」としか言いようがありません。あるときどういうわけか黒雲が晴れて、そこに本願があることに気づくのです。
 これが信心が起るということです。

タグ:親鸞を読む
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