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1月17日(木) [はじめての親鸞(その21)]

 チルチルとミチルの話を思い出します(『青い鳥』)。彼らは幸せという名の「あなた」に会いに行くのですが、どこに行っても会えません。意気消沈して家に戻ってくると、そこにはあれほど探していた「あなた」が待っていたというお話です。あのお話は、「あなた」には会うことができず、遇うことしかできないのだと言っているのです。
 「遇う」場合は、遇ってしまってから誰に遇ったかに気づきます。「誰かと思ったら、あなたでしたか。こんなところであなたに遇えるとは思いもよりませんでした」という具合です。「会う」は未来形ですが、「遇う」は完了形です。「会う」は「これから会おうと思う」ということですが、「遇う」は「すでに遇ってしまった」のです。あるときふと「あなた」に遇って、その後で、ああ「あなた」に遇ったのだと気づくのです。
 こう言っても同じです。「会う」は「わたし」が先ですが、「遇う」は「あなた」が先です。「会う」ときは、まず「わたし」が「よし、あの人に会おう」と思い、しかる後にあの人に会います。しかし、「遇う」ときは、まず「あなた」が突然現れ、しかる後に「わたし」が遇えたことに気づくのです。
 蛇足かもしれませんが、念のため申し添えます。「会う」は未来形だと言いましても、過去形がない訳ではありません。「昨日あの人に会った」と言います。でも、それは「昨日、あの人に会おうと思って会った」ということで、「これから会おう」と思うことが含まれています。「これから会おう」と思ったのが昨日だったのです。
 一方「遇う」は完了形しかありません。「明日あの人に遇うだろう」とは言えません。遇ってしまってから、遇ったことに気づくのですから、先のことを前もって言うことはできないのです。

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