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東国の念仏者たち [『末燈鈔』を読む(その23)]

(2)東国の念仏者たち

 この手紙の背景にあるものを手短に説明しておきます。
 末尾に建長7年10月3日の日付けがつけられ、「愚禿親鸞八十三歳之を書く」とあります。親鸞はこの年に『尊号真像銘文』、『浄土三経往生文類』、『愚禿鈔』などを著していまして、老いてなお精神活動が活発であったことがうかがえます。また、この年末に五条西洞院の住居が焼け、三条富小路の弟・尋有(僧職にありました)の元に身を寄せていますが、いろいろ不便があったことでしょう。
 そして何よりこの頃の東国は風雲急を告げていました。長男の善鸞が親鸞に代わって関東に行っていたのですが、それが元となり、各地でさまざまなトラブルが起こったのです。残された手紙(残念ながら『末燈鈔』には採録されていません)から見えてきますのは、善鸞が古くからの親鸞の弟子たちと対立し、あげくに親鸞の教えに反するような言動をとったことです。
 親鸞はついに善鸞を義絶せざるをえなくなりますが、それが翌建長8年5月のことです。この手紙はそんな混乱の時期に笠間の念仏者に書き送られたものであることを頭において読む必要があります。ところで手紙の末尾に性信坊(しょうしんぼう)という人名が出てきます、「これさらに性信坊・親鸞がはからひ申にはあらず候。ゆめゆめ(ここに申し述べましたことは、性信坊と親鸞がはからいあってのことでは決してありません)」と。
 ここであらかじめ東国の念仏者たちについて見ておきましょう。
 大まかに言って三つのグループがありました。一つが性信房を中心とするグループ(その地名から横曽根門徒と呼ばれます)、二つ目が真仏房を中心とするグループ(高田門徒)、そして三つ目が順信房を中心とするグループ(鹿島門徒)です。親鸞の門弟たちを記録した『二十四輩牒』によりますと、その第一に性信が、第二に真仏が、そして第三に順信がきますので、この三人がもっとも有力であったと考えていいでしょう。


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