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宿業論 [「親鸞とともに」その66]

(9)宿業論

従因向果と従果向因ということばがあります。「因から果に向かう」のと、「果から因に向かう」ということで、前者は菩薩が修行して(因)さとり(果)に向かうこと、後者はさとりをひらいて(果)衆生教化(因)に向かうことを意味し、いわゆる往相と還相のことです。このことばを元の意味から離れていまの問題に借用しますと、宿命論は従因向果で、宿業論は従果向因と言えます。宿命論は因からスタートして、それが果を一義的に決定しているとし、したがって何ごとも必然であると見ます。それに対して宿業論は果からスタートして、その果が起こったのは「たまたま」ある因があったからであり、したがって偶然であると見るのです。

どちらも因と果のつながりを前提としながら、宿命論はある因がこの果を一義的に決定していて必然と見るのに対して、宿業論の方は、この果は「たまたま」ある因から起こったのだから偶然と見るというコントラストがあります。宿命論は、ある因がこの果を生みだしたのだから、この果が起こるのは必然であると感じるのですが、宿業論は、ある因によりこの果が起こったが、しかしかならずしもこのつながりではなく、別のつながりでもいいのに、どういうわけかこのつながりになったということから、この果は「たまたま」だという印象が生まれるのです。

Aという因からBという果が生まれたとき、宿命論はAという因自体を必然と見ることから、Bという果も必然と映るのですが、宿業論では、かならずしもAという因ではなく別の因でもよかったのに、どういうわけかAという因からBという果が生まれたと見て、そこからBという果は偶然であると感じられるのです。宿命論がAという因自体を必然と見るのは、その因もまたもう一つ前の因によって規定されているからで、そのようにもう動かしがたい因果の系列ですべてが決定されているとします。しかし宿業論は、Bという果がAという因から生まれてきたのは必然でも、Aが因となること自体には必然性はなく「たまたま」のことであり、したがってBという果も「たまたま」であるとするのです。


タグ:親鸞を読む
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