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十悪・五逆・謗法・闡提のともがら [「『おふみ」をよむ』その19]

(6)十悪・五逆・謗法・闡提のともがら

ここで蓮如は『高僧和讃』から源信を讃える一首を引き、その第2句「外儀(げぎ)のすがたはことなりと」をふくらませて、どんなつみびとであっても、という論点にふれています。その際に彼は「つみは十悪・五逆・謗法(ほうぼう)・闡提(せんだい)のともがらなれども、回心懺悔(えしんさんげ)して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします阿弥陀如来の本願なりと信知して」と言っています。現生正定聚(平生業成)とともに、この「あさましき機」の自覚こそ、親鸞浄土教のエッセンスに他なりませんが、蓮如はそれを的確にとらえ、「おふみ」のなかで繰り返しを嫌うことなく何度でも指摘していきます。

ところが、どういうわけか、ここでの蓮如の言い回しに引っかかりを感じてしまうのです。またもや微妙な違和感がある。

それは何かと言いますと、なにかひとごとのように言っていると感じるのです。「十悪・五逆・謗法・闡提のともがら」とは、自分のことではなく、誰か別の人のことであるように感じてしまう。親鸞のことばからは、そんなふうには感じません。たとえば「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」ということば(『歎異抄』第1章)。

このなかの「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」ということばから、「ひとごと」の感じはしません。そのなかにはまぎれもなく親鸞そのひとが含まれていると感じます。つまりこれは自分自身のことを語っているのであって、自分を棚に上げて、客観的にものごとを語っているのではないのです。「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」は、「罪悪深重、煩悩熾盛のわれ(あるいは、われら)」であるということ、ここには親鸞浄土教にとって本質的なことがらが潜んでいます。


タグ:親鸞を読む
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