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想起ということ [正信偈と現代(その183)]

(4)想起ということ

 ぼくらは美しいものを見て「あゝ、美しい」と思いますが、これは誰かに教えられてそう思うのではなさそうです。ではどうしてそんなふうに思えるのか、プラトンはこう答えます。われらはもともと美そのもの(美のイデア)を目の当たりにしていたのだが、この世に生まれてくるとき、それをすっかり忘れてしまった。ところが何か美しいものに出会って、忘れていた美のイデアをふと思い出す。そしてそのとき「あゝ、美しい」と感動するのだと。これが想起説とよばれるものです。
 疑問が起こるに違いありません。やはりこの世に生まれたあと誰かに教えられて、美しさの判断ができるようになったのではないか、と。プラトンはこんな幾何学の例を出してこの疑問に答えようとしています(『メノン』)。これまで幾何学など学んだことのない召使に、ある正方形の倍の面積をもつ正方形を作図してもらうとしましょう。その細かい過程は省略しますが、一つひとつ手順を踏んでいくと、幾何学にまったく縁のなかった召使が、もとの正方形の対角線を一辺とする正方形が倍の面積をもつことを完璧に理解できることを示すのです。そこからプラトンは言うのです、召使にこんなことが可能であるのは、もともと彼自身のなかにあったものを想起しているからであるに違いないと。
 この世に生まれる前に真理そのものを見ていて、それを何かのきっかけで想起するなどという説明はどうにも神話的ですが、でもそこに真実が潜んでいることを認めないわけにはいきません。もともと知っていたにもかかわらず、それをすっかり忘れてしまっていて、あるときふとそれを思いだすということ。弥陀の心光も同じように考えることはできないでしょうか。もともとそれを目の当たりにしていたのですが、いつしかすっかり忘れてしまっていた。ところが何かの折にふとそれを思いだす、「あゝ、弥陀の心光に摂取されているのだ」と。
 しかしその心光を目の当たりに見ることはできません。「煩悩まなこをさえてみることあたわず」です。

タグ:親鸞を読む
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