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わたしの意思 [「親鸞とともに」その99]

(2)わたしの意思

どのような行為であれ、それが意識的になされる以上、そこに「わたしの意思」があるとしますと、その意味では、あらゆる意識的行為は自由であるということになります。しかし、そこに強制があるとしますと、「嫌だけど、やむを得ずそうしよう」と思ったということでは「わたしの意思」によると言えますが、しかしそれを自由な行為とは言えません。意識的行為はみな「わたしの意思」によるという意味では自由でも、その意思が強制されているとしますと自由ではありません。このように考えてきますと、自由には二つの要素があり、一つはそこに「わたしの意思」があるということ、もう一つはその意思が誰からも強制されていないということです。

かくして問題は「わたしの意思」が第一起点になっているかどうかということになります。「わたしの意思」によるとしても、その「わたしの意思」に他の力がはたらいていないかどうかということで、もしそこに何らかの力がはたらいていれば、それは第一起点とは言えませんから、したがって自由ではありません。さて問いです、第一起点としての「わたしの意思」は存在するでしょうか。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」はそれに対する答えで、彼は第一起点としての「わたしの意思(われ思う、コギト)」は存在するとし、したがって「わたし」は自由であると宣言しました。

しかしこの推理には誤謬があると指摘したのがカントです。確かにわれらが何かを思うとき、そこには「われ思う」が必ず伴っていますが、しかしそのことから第一起点としての「われ」が存在するこという結論は出てこないと言うのです。これは、われらが何かをするとき、そこには「そうしよう」という「わたしの意思」が必ず伴いますが、だからといって、その「わたしの意思」が第一起点であるとは言えないということです。「わたしの意思」があることと、それが第一起点であることは別のことです。ところがわれらはこれを混同し、われらには第一起点としての「わたしの意思」があり、それがわれらの自由の根拠であると思い込んでいます。


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