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わが弟子、ひとの弟子 [『歎異抄』を聞く(その66)]

(3)わが弟子、ひとの弟子

 蓮如は北陸で専修念仏の教えを広めようとしてこの問題にぶつかったのですが、すでに親鸞の時代から「わが弟子、ひとの弟子」の争いがあったことが分かります。親鸞が流罪の地・越後から常陸に移って教えを広めた結果、関東各地(下野、常陸、下総)に親鸞の教えを奉じる念仏者たちのグループが形成されていきました。性信房をリーダーとする横曽根門徒、真仏房を中心とする高田門徒、順信房のもとに鹿島門徒など。このようにそれぞれの土地でグループが形づくられていったのは自然の成り行きですが、それがいつの間にか派閥化し、グループ間で、あるいは各グループ内の道場間で弟子の取り合いが起こったのでしょうか。
 親鸞の手紙から確認できるものとしては、「おほぶ(大部、今の水戸市の地名)の中太郎のかたのひとびと」が何十人も中太郎をすてて、親鸞の名代として関東に来ていた善鸞のもとに移っていったという出来事があります。親鸞はおそらく中太郎からその知らせを受けたのでしょう、わが子・善鸞に向かって「どうしてそんなことになったのですか」と詰問しているのです。それにしても、「わが弟子がひとに奪われたのはけしからん」とか、「師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」などと言うのはどうしたことでしょう。
 「わがもの」という呪縛の強さを痛感します。
 そもそも釈迦の教えは「わがもの」への執着から解き放たれることを説くものであるのに、その教えそのものを「わがもの」とし、そして教えの弟子をも「わがもの」とするというのは何という皮肉でしょう。第4章、第5章と同様、ここでも「わがはからひにて」、あるいは「わがちからにて」という思い込みから離れられないわれらの姿がくっきりと浮き彫りにされます。「わがちからにて」慈悲を行い、「わがはからひにて」供養を行っていると思い込むのと同様、「わがちからにて」「わがはからひにて」ひとに念仏をもうさせていると思ってしまう。何という自力の執心か。
 われもひとも「ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふ」ということ、ここにすべての鍵があります。

タグ:親鸞を読む
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