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死者が生者を鎮魂する [『一念多念文意』を読む(その177)]

(11)死者が生者を鎮魂する

 先の会話の続きです。
 「ええと、生者がいなくちゃ成立しない死者ってことは、つまり死者は生きてる人の思い込みっていうか、思い出の延長ってこと?生き残った人の心の中にだけ生きて、一方的な生者の都合に合わせて、わたしたちはあらわれる」「それも違うと僕は思う」「え、なぜ、なんで?」「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だって誰も亡くなっていなければ、あの人が生きていればなあなんて思わないわけで、つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくてふたつでひとつなんだ」。
 ここでSは、死者は生者の心の中にあるだけでもないと言います。死者は霊魂として客観的に存在するのでないとしても、だからと言って、単に心の中で想像されるだけのものでもないということです。ここのSのことばは意味が曖昧と言わなければなりませんが、もし死者は心の中にいるだけなら、死者は生者に生かされているだけだが、逆に、生者が死者に生かされるということもあると言いたいのでしょう。死者は生者に生かされているが、生者も死者に生かされている、その意味で「持ちつ持たれつ」なのだと。小説はこれ以上の展開を見せてくれませんが、ぼくとしてはなんとしてもこの先を考えていきたいと思うのです。
 生者と死者の関わりと言いますと、普通は生者が死者を鎮魂することを頭に浮かべるものでしょう。この小説を評して、大震災の死者たちを鎮魂する小説としては成功していないのではないかと言う人がいましたが、その人はやはりその方向で読んでいるのです。しかし、この小説はそのことを書いているのではありません。逆に、死者が生者を鎮魂することについて書いているのです。

タグ:親鸞を読む
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