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一味平等とは [「親鸞とともに」その62]

(5)一味平等とは

縁起の法においては一味平等であると述べました。曇鸞は『論註』で「遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」と言いますし、あるいは「正信偈」には「衆水(どんな川の水も)海に入りて一味なるがごとし」とあります。このように「分け隔てがない」という趣旨のことばに出あいますと、「そうだ、人間はみな平等であり、違いがあってはならない」と思います。しかし漠然とそのように思っているだけでしたら、すぐさま現実から手厳しいしっぺ返しをくらわされ、そんな思いはただの空想にすぎないことを思い知らされます。現実に存在するのは違いばかりで、平等なんてどこにもないという事実をつきつけられるのです。

実際の社会において平等と言われているのは、みな条件付きの平等と言わなければなりません。たとえば「賃金の平等」と言いますのは、誰でもみんな同じ賃金ということではなく、同一労働という条件における平等です。現実に一人ひとりみな違っているのに、その違いを一切無視して、みんなをまったく同じとみなすというのは無茶であり、細かく条件を定めて、その条件の中で平等とするしかありません。実際の平等は、そのように厳格な条件下の平等であると言わなければなりませんが、さて考えなければならないのは仏法における平等です。「遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とする」と言われる平等とはどういう平等でしょうか。

この平等も条件付きの平等でしょうか。賃金の平等とは、どんな人であれ(男であれ女であれ、正社員であれ契約社員であれ)、同じ質の労働をするという条件の下に同じ賃金が支払われることであるように、本願による救いの平等も、どんな人であれ(『歎異抄』のことばでは、老少・善悪のひとをえらばれず)、本願を信じ念仏を申すという条件があれば同じように救われるということでしょうか。そうではありません、本願の救いにどんな条件もありません。本願を信じ念仏を申すことが救い(往生)の条件とされた途端に、それはもはや他力の救済ではなく、自力の救済になります。


タグ:親鸞を読む
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