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「信巻を読む(2)」その25 ブログトップ

この心すなはちこれ大慈悲心なり [「信巻を読む(2)」その25]

第3回 救いは如来の本願力による

(1) この心すなはちこれ大慈悲心なり

「信の一念」のつづきです。金剛の信心の人は現生に十種の益をえることが述べられたあと、次の自釈の文がきます。

宗師(善導)の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。しかれば、願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。

最初の文は、先に「光明寺の和尚は『一心専念』といひ、また『専心専念』といへり」と述べたのを受けて、「専心専念」の「専心」は「一心」であり、「専念」は「一行」であると指摘しています。すなわち「専心」は「信の一念」であり、「専念」は「行の一念」であるということです。善導の「一心専念」も「専心専念」も、信と行は切り離せないことを意味しており、信のあるところ、かならず行があり、行があるところ、かならず信があるということです。

このように善導の言う「専心」は成就文の「信の一念」であることを確認した上で、その専心を次々と言いかえていきます、専心⇒深心⇒深信⇒堅固深信⇒決定心⇒無上上心⇒真心⇒相続心⇒淳心⇒憶念⇒真実の一心⇒大慶喜心⇒真実信心⇒金剛心⇒願作仏心⇒度衆生心⇒大菩提心⇒大慈悲心というように。これは信心の相をさまざまな角度から述べているということですが、同時に、真実の信心は結局のところ大慈悲心に収まることを言おうとしているように思われます。


タグ:親鸞を読む
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