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『教行信証』精読(その88) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読(その88)]

            第8回 即の時に必定に入る

(1)本文1

 引き続き龍樹『十住論』「地相品」から引用されます。

 問うていはく、凡夫人のいまだ無上道心1を発せざるあり。あるいは発心するものあり。いまだ歓喜地を得ざらん、この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および希有の行を念じて、また歓喜を得んと。初地を得ん菩薩の歓喜とこの人と、なんの差別(しゃべつ)かあるやと。
 答へていはく、菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、われまたさだめてまさに得べしと。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳います。われまさにかならずかくのごときの事を得ベし。なにをもつてのゆゑに。われすでにこの初地を得、必定のなかに入れり。余はこの心あることなけん。このゆゑに初地の菩薩多く歓喜を生ず。余はしからず。なにをもつてのゆゑに。余は諸仏を念ずといへども、この念をなすことあたはず、われかならずまさに作仏すべしと。たとへば転輪聖子(てんりんじょうじ)の、転輪王2の家に生れて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念をなさん。われいままたこの相あり。またまさにこの豪富尊貴を得べし。心大きに歓喜せん。もし転輪王の相なければ、かくのごときの喜びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずれば、われこの相あり。かならずまさに作仏すべし。すなはち大きに歓喜せん。余はこの事あることなけん。定心は深く仏法に入りて心動ずべからず」と。
 注1 菩提心のこと。
 注2 正法により世界を統治する理想的な王。

 (現代語訳) いまだ菩提心をおこさない凡夫や、菩提心をおこしてもまだ歓喜地に至らない人も、諸仏や諸仏の功徳を念じ、必定の菩薩や希有の行を念じて歓喜をえることもあるでしょう。そのような人と初地をえた菩薩との間にどのような違いがあるのでしょうか。
 お答えしましょう。初地をえた菩薩は、諸仏の無量の功徳を自分もまたかならずえられるであろうという喜びがその心にあふれています。初地をえた必定の菩薩は、諸仏を念ずるときに、その無量の功徳が自分の身にかならずそなわるという思いがあります。どうしてかといいますと、すでに初地をえて、必定の位にあるからです。他の人にはこの思いはありません。こういうわけで初地の菩薩には歓喜が多く、他の人はそうではないのです。なぜかと言えば、他の人は諸仏を念ずるとしても、自分もかならず仏となれるという思いがおこらないからです。これは、たとえば輪転王の家に生まれた子が、転輪王の相を具えていて、過去の転輪王の功徳や尊貴を思うにつけて、自分にもこの相があるから、やがてそのような富と身分を得るであろうと思い、喜びがあふれるでしょう。もし輪転王の相がありませんと、このような喜びはありません。そのように、必定の菩薩も、諸仏とその大いなる功徳と尊貴を思うにつけて、自分もその相があるから、かならず仏となるに違いないと思い、喜びに包まれますが、他の人はそうではありません。定心といいますのは、こころが深く仏法とひとつになり、何ごとにもこころが動揺しないことです。

タグ:親鸞を読む
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