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わがこころのよくてころさぬにはあらず [「信巻を読む(2)」その147]

(13)わがこころのよくてころさぬにはあらず

これまでの流れをふり返っておきますと、善導は第十八願に「ただ五逆と誹謗正法を除く」と書かれているのは、それらの罪の重きを示して抑止するためだと述べます。文字通りに五逆と謗法を摂取の対象から除外するということではなく、たとえ五逆や謗法の罪を犯しても、それを慚愧すればみな摂取してくださるというのです。それを裏返して言えば、どんな逆悪もみな摂取されるとはいうものの、だからといって何をしてもいい(「造悪無碍」)ということにはならず、むしろ、どんな逆悪もみな摂取してくださるという本願に「遇ひがたくして、いま遇ふこと」を得れば、「この身のあしきことをばいとひすてん」とするということです。第十八願に「ただ五逆と誹謗正法を除く」とあるのはそういう意味だと言っているのです。

さてそのように述べてきた後で、最後にあらためて五逆の意味を確認しているのですが、これはどういう意図からでしょう。おそらくは五逆を何か特別な罪であり、ほとんどの人には無縁のことであるかのように思い込ませないよう釘をさす意味があると思われます。三乗の教えの五逆と大乗の教えの五逆ではその内容にかなりの開きがあることを示して、決してわれらに無縁のことではないと言おうとしているのではないでしょうか。とは言っても、ここに上げられている罪の数々はほとんどの人が一生することがないでしょうが、それはしかしたまたまその縁がないからであり、縁さえあれば誰でもしてしまいかねないということです。

われらは父殺しや母殺しなどと言われますと、それは特別な人のすることであり、自分とは関係がないと思ってしまいますが、親鸞に言わせますと、「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(『歎異抄』第13章)であり、さいわいその縁がないからにすぎません。その縁さえあれば「百人・千人をころすこともある」のであり、われらはみな阿闍世と地続きのところにいるのです。(第12回 完)

 

以上で「信巻を読む(2)」が終わります。明日からは「親鸞とともに」と題して、さまざまなテーマで考えていきたいと思います。はじめに「生きる意味ふたたび」。


タグ:親鸞を読む
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