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このよにてつねにまもりたまふ [はじめての『尊号真像銘文』(その91)]

(10)このよにてつねにまもりたまふ

 前につづいて『観念法門』の文です。善導はこの書物において念仏には五種の利益(五種増上縁)があるとして、滅罪、護念、見仏、摂生(せっしょう)、証生(しょうしょう)の増上縁を上げていました(2)。これまでの摂生増上縁に代わって、今度は護念増上縁が取り上げられます。
 護念の意味については、親鸞が「まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふ」と解説してくれていますが、善導はそれを言うためにさまざまな経から要文を引いています。そのひとつが『観経』「真身観」の有名な一節、「(弥陀の)光明は十方世界をあまねく照らし、念仏衆生を摂取して捨てたまわず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」ですが、善導はその意をとり、「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず」というかたちで出しているのです。
 さて護念ということ、「まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふ」というのはどういうことでしょう。
 すぐ前のところで、往生の旅がはじまるのを待っている人の眼はひたすら「これから」に向いていて「いま」が空虚だが、すでに往生の旅の中にいる人は「いま」を生きていると言いました(8)。こころが「後生の一大事」(蓮如の口ぐせです)に向かっているか、それとも「今生をどう生きるか」に向かっているかということです。この「これから」か「いま」か違いは、「このよにてつねにまもりたまふ」ことをどう理解するかにも大きな影を落としてきます。
 まず言っておかなければならないのは、「このよにてつねにまもりたまふ」というのは、病気になることや災害に遭うことから「まもりたまふ」のではないということです。本願を信じ念仏を申しても病気になりますし、災害にも遭います。当たり前のことです。念仏はこのような意味での現世利益をもたらしてくれる魔法の呪文でないのは言うまでもありません。では何を「まもりたまふ」のかといいますと、どんな境遇にあっても正定聚として生きることを「まもりたまふ」のです。

タグ:親鸞を読む
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